冬の花火

 久しぶりに冬の花火を観ました。1月14日・熱海にて。

 冷え切って澄み渡った夜空に咲く大輪の花は見事でした。
(鮮やかさでは、夏よりも冬の方が優っているかなぁ)と思いながら楽しませてもらったものの、じわじわと足元から這い上がってくる凍てつくような寒さに耐えきれず、慌てて蕎麦屋に飛び込み、「熱燗!急いで!」となりました。

 そして出てきた徳利を両手で包み、その暖かさが、かじかんだ手をほぐしてくれる嬉しさを噛み締め、グッとお猪口から流し込んだ熱い酒が喉元を降りて行く快感に、「あー 生き返った!」と思わず呟いてしまいました。

 (やっぱり花火は夏のものかなぁ・・・・浴衣・団扇、帰り道の金魚すくい、風鈴の音・・・・・。そうだよなぁ・・・・・花火はやっぱり夏の情緒だな・・・・・)
そんなことを思いながら、ちびちびやっておりましたが、そう言えば最近、季節感を伴った「情緒」があまり感じられなくなったことに想いが広がりました。

 四季の草花にしても、食べ物にしても、季節を問わず手に入るものが増えました。
それはハウス栽培、冷凍設備、養殖技術等々の進歩が、私たちの生活を便利に豊かにしてくれたのですが、一方では『旬』という有難さを味わう「情緒」が薄れて行ったのかもしれません。

 例えば「タラの芽」。
寒い寒い冬を我慢して、やっと差し込む春の陽差しにホッとした頃出される「タラの芽」の天ぷら。
見た目にも、香りにも、少しある苦味にも、春の訪れを感じて感動する、そんなことも少なくなりました。
冷凍物でしょうか、「タラの芽」も結構一年中見かけるようになりました。

 そもそも「情緒」を感じるとはどういうことなのでしょう。

 独断が許されるなら、「それまで生きてきた経験の中で、大切に仕舞われてきた感覚が、ふとした瞬間蘇り、心も立ち止まる」てなことになるのですが・・・・

 この「心も立ち止まる」こと自体が、現代社会では少なくなってはいないでしょうか。

 スマホの対応に追われ、ネットの情報に急き立てられ、学校の成績も仕事の業績も、即・成果が求められる時代。
つまりは、外からの刺激、外からの刺激に応え続ける日々。
内から滲み出る想いを掴めず、心が立ち止まっている暇もないかのようです。
となれば「情緒」と言われる感覚も遠のくことになるのでしょう。

 更に考えると、豊かさ・便利さ・快適さを追い求めてきた結果がこの時代を作っているならば、この先「情緒」を感じる場面は、当然のごとく無くなって行くのでしょうか。
どうも「情緒」とは、合理性、効率性、即効性的な世界とは相容れない分野の感覚のように思えるのです。

 やがてA・Iが更に進化して、シンギュラリティ(人工知能が人間を凌ぐ時代)が来ると言われています。
それは果たして人間にとって幸せな時代なのだろうか・・・・・と思いつつ、お猪口をグッともう一杯。やったところにガラガラと店の戸が開いて、若いカップルが入って来ました。
そして席に座るや否や二人とも、注文もそこそこに、無言でスマホを始めました。

 顔を見合わせることもなく、ひたすらスマホの指を動かし続けるその表情は真剣です。注文の品が来ても、それにはほとんど無反応。ただただスマホの画面に見入っていました。

 (・・・・・間違いなく、時代が変わるな・・・・・)
 そう感じながら傾けた一杯は、ほろ苦い味がしました。

      テレビ屋  関口 宏