小林恭子(在英ジャーナリスト:第2回優秀賞受賞)
昨年6月、英国では欧州連合(EU)に残留するか離脱するかの国民投票が行われた。結果は離脱(「ブレグジット」=Britain=英国と Exit=出る=の造語)である。
投票直前まで、残留を勧めたキャメロン首相(当時)側は「離脱すれば経済がめちゃめちゃになり、恐ろしいことが起きるぞ」と国民に脅しをかけた。「第3次世界戦争」の勃発を示唆するような表現も使った。しかし、実際にブレグジットが決定されてみると、半年以上が過ぎた現在もまだ「恐ろしいこと」は起きていない。今年のGDP成長率は1・4%と減速しているが、昨年のクリスマス時の売り上げは悪くなく、消費マインドは上々だ。
ブレグジット実現に向けてEUとの交渉が始まるのは3月末以降で、いったん交渉が始まると2年以内に離脱となる。まだ離脱が現実化したわけではないので、表面的には特に何も変わっていない。
しかし、唯一変わったのがEU移民への影響だ。EUの原則は、域内での人、モノ、サービスの自由な行き来だ。離脱すればこれが止まる。これまではEU市民であることを理由に英国にやって来て、生活を始めていた人が今後はそうできなくなる。
英国在住のEU市民はどうなる
政府はまだ在英のEU市民がどのような処遇になるべきか、方針を決めていない。人道的にはこれまで通り、生活ができるようにするのが筋だが、ほかのEU諸国に住む英国からの移民にも同様の生活条件が保障されることを政府側は求めている。つまり、「英国からの移民を今まで通り扱ってくれるなら、こちらも英国にいるEU市民を同じ様にします」というわけである。
EU側の反応はというと、「3月末以降正式に離脱交渉が始まってから、話しましょう」。そこで、政府としては「待ち」の姿勢となっている。英国に住むEU市民は宙ぶらりんの状態だ。政治の駆け引きの道具にされていると言えよう。
ブルガリア出身の知人のジャーナリスト、ルミヤーナ・バカレルスカさん。昨年秋、ロンドン市内で久しぶりに会うと浮かない顔をしている。「ブレグジットにはがっかりした。あまりにもショックで、投票の結果が出た後の数日間は、寝たきりになった」という。
バカレルスカさんは共産党独裁体制の「ブルガリア人民共和国」で生まれ育った。1960年代当時のブルガリアは、ソビエト連邦の衛星国の1つである。1989年、ソ連のゴルバチョフ大統領(当時)による改革路線「ペレストロイカ」の下、東欧に新たな風が吹いてゆく。ポーランド、ハンガリーで独裁体制が次々と倒れ、「東欧革命」と呼ばれる動きが出た。ベルリンの壁が崩壊するのは同年11月だ。
同じ月、ブルガリアでも政治的な抗議運動が発生した。バカレルスカさんはこの時、ほかの多くの若者たちとともにデモに参加していた。翌年、共産党は一党独裁制を止め、「ブルガリア社会党」と改名。6月に自由選挙が行われ、11月には現在の「ブルガリア共和国」となった。ブルガリアがEUに加盟するのは2007年。当時は加盟国の中でも最貧国だった。加盟はかつてのソ連からの決別を示す、大きな区切りだった。西欧諸国による欧州統合の波の結実としてのEUに加盟することは、より良い生活、民主化への大きな一歩として受け止められた。
英国歌を歌ってうれし涙
バカレルスカさんはブルガリアの国民であるばかりか、EU市民であることを大きな誇りとした。故国のソフィア大学でジャーナリズムを勉強し、ロンドン大学では国際関係学の修士号を取った。英国人の男性と結婚して子供をもうけた。英国では二重国籍を保持することは合法なので、バカレルスカさんは英国籍も取得。英国歌を歌ったときは、うれし涙が出た。
しかし、2重国籍を持ってはいても、何らかの理由で送還されることも「ないわけではないと思う」。送還される可能性に加え、EU市民としてこれまで享受してきた何らかの権利(例えば働く権利)が限定される可能性もある。
こうした点に懸念を持つのはバカレルスカさんだけではない。
2004年にEUに加盟したポーランドからやってきた女性が、涙声で怒りの感情をぶつけていた様子を、昨年11月、BBCの人気討論番組「クエスチョン・タイム」の中で見た。
会場の聴衆が意見を述べるコーナーで、女性は「04年当時、将来、英国がEUを離脱する可能性はゼロだった。英国にやって来て、結婚し、生活の根をここにおろした。今さらブレグジットになるなんて、私や家族はどうしたらいいんですか」。
英社会に溶け込んだフランス人も
EUの前身となる欧州石炭鉄鋼共同体(1952年発足)時代から「統合」の一部だったフランス。英国に住むフランス人は約15万人に上るが、フランス人コミュニティの間にもブレグジットの国民投票前にはなかった現象が生じていた。
英社会に十分に溶け込んだかのように思えるフランス人コミュニティだが、あるフランス人女性はブレグジットの投票後、視線が変わったことを指摘する。昨年9月に放送された、BBCのラジオ4の番組の中で、娘についてのエピソードを披露した。
この女性は英国人と結婚し、娘が一人。ある時、娘がロンドン市内を友人とフランス語で会話をしながら歩いていたという。以前だったら特に注目される行為ではなかったが、ブレグジット後、「フランス語を通りで話しているだけで、きつい視線を浴びるようになった」という。ほかにも、筆者の友人で有色人種の女性が白人から「家に帰れ」などの言葉を発せられたと聞いた。この友人は英国生まれの英国人だ。
かつて大英帝国として世界中に植民地を抱えていた英国は、肌、宗教、人種などの異なる人々の往来が良く行われてきた国と言える。
国策として移民を受け入れたのは、第2次世界大戦後だ。労働力不足を補うため、英領西インド諸島(ジャマイカ、トリニダード・トバゴなど)から人を受け入れた。有色人種だった移民たちは独自のコミュニティを作って、英国の中で生活圏を作ってゆく。
大英帝国の一部だったインド亜大陸(インド、パキスタン、バングラデシュ、ネパールなど)からも移民が流入し、英国はいわゆる「多文化の国」になってゆく。
日本は独特の位置づけ
日本人の移民として暮らす筆者だが、日本人であるということで特に差別を受けた経験はない。ただ、第2次大戦中に捕虜に残虐行為を行ったことを記憶している人は多くおり、年配の人が自分と話すとき、過去が頭の片隅にあるだろうことを意識するようにしている。
現在、英国で日本に対する関心はあまり高くはないが(目下の最大の関心はアジアでは中国)、日本人の生活者は一種独特の位置に置かれている。一定の所得があり、礼儀正しいというイメージがある。英国と外国とをひんぱんに行き来する時、パスポート検査をスムーズにできる「登録旅行者カード」があるのだが、日本人であれば、このカードが取得できるようになっている。
政治的迫害を訴える人物への難民申請の受け入れは日本よりははるかに多い。ちなみに、2015年第3四半期から16年第3四半期までの難民申請件数は約4万3000件(難民カウンシル、調べ)。このうち、24-38%が難民として認定を受けた。受けられなかった人は再度申請をしながら、英国内に留まる。
「移民=イスラム教徒」
欧州大陸と英国を「移民」というキーワードで比較してみると、「移民=イスラム教徒」として認識される国がいくつかある。例えばオランダやフランスだ。
フランスの場合、「移民」は北アフリカからやってきた人々で、人種的にはアラブ人、宗教的にはイスラム教徒となる。フランスでは、移民=アラブ人=イスラム教徒はしばしば、差別の対象になるという。
昨年秋、移民が多く住むパリ郊外サンドニの市会議員マジド・メッサオダン氏に話を聞いたことがある。同氏はフランス生まれだが、両親はアルジェリアからの移民だ。知らない人が自分を見た時、「フランス人だとは思われない」という。「移民」と思われるような名前で履歴書を出すと職を見つけることが非常に難しくなる。メッサオダン氏はフランスは「人種差別の国」と言い切った。
筆者の場合、英国に2002年から移民として住んでいる。差別らしい差別を受けることもなく、生きている。外国人、外国人と思しき人が長く住んできた英国は、海外での生活経験がある人も多く、日本人だから、あるいはアジア系の姿かたちをしているからと言って特別視されないという要素が大きい。移民受け入れに慣れているはずの英国で、目下の唯一の懸念がEU市民のこれからの処遇なのである。