当たり前が「異常」になってしまう政治取材現場

K.Kozuka

小塚 かおる
日刊ゲンダイ記者

 「東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者は当たり前のことをやっているのに、どうして大ごとになるのか不思議だ。政治取材がおかしなことになっている」

 衆院選後の政局についての見解を聞こうと、日頃から世話になっている70代の元新聞記者に会うと、こんな感想を漏らした。首相や閣僚、自民党幹部の番記者を長く務めたベテランである。

 望月記者の一件とは、既にご存知の方も多いと思うが、菅義偉官房長官の記者会見でのやり取りを指す。官房長官は毎日午前と午後の2回、定例の記者会見を行う。出席者のほとんどが首相官邸詰めの政治部記者なのだが、そこに社会部の望月記者が顔を出し、加計学園問題をめぐって粘り強く疑問点を質問し続けた。それが菅長官の動揺を誘い、結果的に文科省が、拒み続けてきた加計関連の内部文書の再調査を決断するきっかけのひとつとなったのだった。

 

「質問させてもらえない」「当ててもらえない」

 望月記者はその後も菅会見で疑問をぶつけ続けている。その中身は彼女の近著「新聞記者」(角川新書)に詳しいが、本でも彼女は「おかしいと感じたことに質問を繰り返しているだけ」と記している。取材対象者に疑問をぶつける――。記者として当然の作業なのに、首相官邸の取材現場ではそうなっていないから望月記者の言動が大ごとになるのだ。官邸記者クラブから冷ややかな視線が向けられる〝完全アウェイ〟の中で、ひとり異質な質問を投げかけ続けるのは(時には他社の記者の応援もあるようだが)、かなり勇気とエネルギーのいることだと思う。しかし、ここで考えてみたいのは、なぜ当たり前のことが「特別」になってしまうのか、である。

 論点は2つある。政権側の問題と政治取材側の問題だ。

 まず政権側から言うと、もともと権力者は嫌な質問に答えたくない。記者会見なども、国民の知る権利に応えるために、ある種の「仕方のない義務」として対応してきたようなものだ。だが、安倍政権になってこの義務すらなおざりにする傾向が顕著になっている。
官房長官会見は毎日行われるからそこまで厳密ではないが、節目節目で行われる首相会見では、幹事社以外からの質問は2問程度に限定され、NHKや産経新聞など比較的政権に近いとされる国内メディアと外国メディアの1社ずつしか質問させてもらえない。させてもらえないというか、それ以外の記者が手を上げても当ててもらえない。

 2009年に民主党が政権を取った際に、首相官邸だけでなく諸官庁で記者クラブ以外のメディアやフリーの記者・ジャーナリストにも会見への参加が解放された。首相会見はその名残りで自公政権に戻った後も記者クラブ以外の記者が参加できるのだが、安倍政権になってから、そうした記者は参加しても質問させてもらえなくなった。そうなると、記者クラブ以外の出席率は下がる。まんまと官邸の狙いにハマっているとも言えるが、予定調和の会見なんてテレビ中継で事足りると思ってしまう。

 

委縮するメディア

 こうした対応と合わせて、安倍政権はメディア本体に〝圧力〟とも取れる要望を繰り出してきた。その一例が2014年12月の衆院選で、自民党が解散前日にテレビ各局に「選挙報道の公平・中立」を要求する文書を配った問題だ。出演者や街の声の選定、発言時間、回数などに配慮するよう求め、メディアを委縮させたのだった。

 官邸は望月記者の質問に対しても、「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑応答がなされ、国民に誤解を生じさせるような事態は断じて許容できない」という文書を、9月1日付で東京新聞に渡している。昨年8月、大学設置・学校法人審議会は加計学園が新設を計画している獣医学部について一旦、「設置認可の判断保留」を決定しているが、それが公表される前に、望月記者がこの件について質問したことを「不適切」として注意を促したのだった。望月記者の質問当日に「保留」の正式発表が予定されていて、記者クラブに「事前レク」が行われていた案件だったことが背景にあるようだ。つまり報道していい時間に縛りが発生していた案件だった、ということだ。しかし審議会が「保留」の方針を決めたことは既にその質問の10日以上前に各社が報じていたから、質問自体は何もおかしくはない。加えて、答える側がきちんと説明すれば「国民に誤解を生じさせるような事態」が起こることはないはずだ。権力側が質問内容に枠をはめるのはいかがなものかと思う。

 一方の政治取材側の問題。番記者制度は政治家と懇意になることで情報が取りやすくなるという利点はある。いかに取材対象に食い込んでいるかが優秀な記者の物差しでもあるし、オフレコ取材も多い。それ自体は全面否定しないが、冒頭の元新聞記者は「どんなに食い込んでいても、必要な質問はしたし、書くべきことは書いた」と言う。ところが今は、政権に嫌われないように煙たがられる質問をせず、結果として権力側におもねることになっているのではないか。

 

事なかれ主義・人員削減……

 危惧するのは、そうしたことが分かった上での行動ではない可能性があることだ。「私は安倍政権に食い込んでいるから、公の場で厳しい質問はしない」という記者は、その姿勢の是非は別として、分かった上で行動している。しかし、何か信念があるわけではなく、面倒を起こしたくないから、という理由で事なかれ主義になっている記者も少なくないように思う。

 メディアの経営環境の悪化で人員削減もあり、どこも記者を丁寧に指導・教育する余裕がない。若い記者はみな、官庁などの発表記事や記者会見のメモを次から次へとパソコンに打ち込んで送る作業で手一杯。多忙を極める中で、できる限り面倒は避けたいという「サラリーマン記者」が増えていく。

 テレビキー局の部長クラスに「社内で記者の指導体制はないのか?」と尋ねたことがある。彼も最近の記者のサラリーマン化を嘆くひとりだったが、
「20代や30代前半の記者に『おい、メシ行こうや』と誘っても、『ちょっと時間が』『まだ原稿が終わっていません』と断られる。実際、我々の時は朝、昼、夕方、夜とニュース時間に合わせて記事を出せばよかったけれど、今はネットにも記事を上げなきゃいけない。捨ててもいいような発表モノでも、デスクは『出して』と要求する。毎日その繰り返しで、じっくり話もできない」

 その結果、菅長官の会見は政府側からの発表事項を伝え、取材側は事実確認をするなどという「事務的なやりとり」が日常となってしまったのでないか。望月記者の登場はそんな弛緩した取材現場にガツンと衝撃を与えたわけだが、望月記者が「特別」ではなくなる日は来るのだろうか。