大崎 麻子
けたたましく鳴る黒電話のベルの音、怒鳴り合うような男の人たちの声、新聞や雑誌や原稿用紙が乱雑に積み重なった無数のデスク。当時、有楽町にあった父の職場だ。そこここに立ち上る煙草の煙で視界はぼやけていたのに、その光景は数十年経った今も脳裏に焼き付いている。小学校に上がったか上がらないかくらいの私が一体どういう経緯で父の職場を訪ねたのだろう。前後の記憶はぷっつり途切れているし、仏壇の父の写真に聞いてみても答えは返ってこない。
毎朝郵便受けに新聞を取りにいくのは、物心ついた頃から私の役目だった。その新聞を作るのが「お父さんの仕事」だという。父は、私が登校する時間にはまだ寝ているし、布団にもぐりこむ時間に帰って来たことなどない。当時はまだ週休1日だったから、同じ屋根の下に暮らしていながら、父と顔を合わせるのは日曜だけだった。その日曜も、昼過ぎまでは父を起こさないように気を遣う。雨の日も風の日も、毎朝毎夕、規則正しく郵便受けに届く新聞と、寝てばかりの父の姿は全く結びつかず、一体どうやって新聞を作っているのか大きな謎だった。だから、父の職場を目の当たりにした時の「お父さんは毎日、こんなところで働いているんだ!」という高揚した気持ちを今でもハッキリと覚えている。
数年後、父は盛岡支局に転勤になった。盛岡で過ごした1年半は、子ども時代の最良の思い出だ。盛岡は、岩手山や北上川といった自然に恵まれた風光明媚な土地であり、石川啄木や宮沢賢治を育んだ文化的な城下町でもある。両親は私の担任の小岩先生から「学校を休んでもいいから、岩手の良い所を全部見て行ってください」と言われたらしく、それを実践した。
先生の脱線話に導かれ
夏休み。盛岡駅から山田線に乗り、宮古に向かった。浄土ヶ浜が目的地だ。ところが、8月だというのに三陸海岸には冷たい雨が降り、海岸には人っ子一人いない。その年、1980年の夏、岩手県は記録的な冷夏に見舞われていた。農作物への影響を心配する農家の様子がテレビで連日報じられていた。小岩先生の授業中の脱線話が甦ってくる。ある児童の両親が冬の間に首都圏に出稼ぎに行った。冷害で農作物が不作だったからだ。その子は祖父母と一緒に両親の帰りを待っていた。ところが、焼き芋の屋台を引いていた両親が交通事故に合い、亡くなってしまったという。出稼ぎは珍しいことではないという東北の現実に心底びっくりしたのだった。
父に手伝ってもらって「冷害」のメカニズムと農家への影響を過去に遡って調べ、レポートにまとめた。それがその夏の私の自由研究だった。それだけではおさまらず、東北のことを知らない、東京の友人たちを想定して壁新聞も作った。小岩先生はそれをクラス代表作品に選んでくれた。それが嬉しくて、将来は新聞記者になろう!と心に決めたのだった。
その夢を大学時代まで持ち続けていたのだが、ある時、父が「でも女子は大変だぞ、最近まで支局には女子トイレも無かったからな」と笑いながら言う。翻意させようという気は感じられず、むしろ、既に同業の先輩かのような口ぶりだった。結局、私は女子トイレの有無とは別の理由で新聞社の入社試験を受けず、父を落胆させた。その後、国連の開発援助機関に就職し、途上国の女性支援に従事するようになった。全く違う仕事を選んだような気もするが、社会公正の実現というゴールは一緒で、思い返せば原点は1980年の夏休みにある。
私が働いていた国連開発計画(UNDP)は、世界177の国と地域で活動する、国連最大の開発援助機関だ。開発の目的を「ひとりひとりが人生における選択肢を広げ、尊厳ある個人として社会に参加できるような環境を創ること」と定義付け、貧困削減、民主的ガバナンス、(災害・紛争などの)危機予防と復興、環境と持続可能な開発の4分野で支援を行っている。原理原則は、国連憲章に掲げられている「人権」と「男女平等」だ。
私はニューヨーク本部の開発政策局で、ジェンダー平等と女性のエンパワーメントの推進に携わっていた。「性別を理由に選択肢や機会が制限されることの無い社会を創る(=ジェンダー平等社会の構築)」「ひとりひとりの女性が日常生活や人生において自己決定できるように力をつける(=女性のエンパワーメント)」ための取組みを支援していた。ジェンダーは、「社会的文化的な性のありよう」と訳されている。生殖器官等の違いに起因する「生物学的な性差」に対し、ジェンダーは男のあるべき姿や女のあるべき姿といった規範、そしてそれらを元にした男女間の役割分担や力関係を指している。
例えば、「地球上の子どもたちが初等教育を受けられるようにする」という国際目標がある。多くの国と地域で、学年が進むにつれて女子生徒の数が減る。支援自体は男女平等になのに、「結果」に差が出るのだ。背景には、水汲みや薪拾いといった家事労働や子育て・介護・看護といった「ケア労働」は女の役割とする固定的性別役割分担、女子を早くに結婚させてしまう児童婚、通学途中や学校内で性暴力に合うリスクの高さ、家族や教員の「女の子は結婚するから教育は必要ない」といった固定観念などの「ジェンダー問題」がある。こうした問題に向き合いながら支援をしないと、健康・教育・経済力・意思決定への参画において男性との間に大きな格差が生じてしまう。
「136カ国中で105位」
近年では、女性が経済・社会・政治などあらゆる場面で意思決定に参加し、能力を発揮できるような環境の方が開発効果が高いことも実証された。女性が教育を受け、経済力を持つコミュニティでは、乳幼児死亡率が下がり、就学率が上がる傾向がある。母親が基礎的な栄養や衛生の知識を身につけていれば子育ての中で実践できるし、自由に使えるお金があれば子どもに予防接種を受けさせたり、病院に連れていったり、教育にお金を使うことができるからだ。女性への投資効果は高いのだ。このように、「経済合理性」の観点からも、ジェンダー平等と女性のエンパワーメントは重要視されている。
UNDPでの私の主な仕事は、日本政府がUNDP内に設置した女性支援のための基金(日本WID基金)のマネジメントだった1997年当時、日本のODA拠出額は世界第1位。UNDPにとっても最大のドナー国だった。「口は出すが、金は出さない」ドナー国が多いなか、日本WID基金は貴重な財源で、とても感謝されていた。この基金を使い、世界50カ国近くで先駆的なプロジェクトを行った。WTO加盟(自由貿易への参入)が女性労働者や女性農民に与える影響調査、公共財源が男性と女性に平等に資するような形で使われているかを分析するジェンダー予算、担保となる土地や建物を所有していない女性たちに小額の融資を行うマイクロファイナンス、女性の政治家を増やすためのクオータ制(割当制)の導入や女性候補者向けのトレーニングや女性有権者教育・・・・。各プロジェクトから得た知見と教訓は文書化し、今でも世界中で活用されている。
2004年11月にUNDPを退職し、日本に帰国した。国際的な流れを受け、日本の国際協力でも「ジェンダー」の知見のニーズは高い。しかし、実は日本国内がジェンダー問題だらけだということもよくわかった。世界経済フォーラムが2006年から行っている世界のジェンダー平等進展度の調査では、日本はここ数年順位を落とし続け、昨年は136カ国中105位。「支局には最近まで女子トイレが無かったんだぞ」という父の言葉の意味が今になって理解できるようになった。
(日本のジェンダー問題や東日本大震災後の東北での仕事についてはまた今度・・)