カンボジアの医療の現状

K.Shintani

進谷憲亮
 両手が真っ黒に焦げてしまった若い男性が、狭い処置室のベッドの上で処置を受けている。その両手はすでに治療の余地がないことは明らかで、よく見るとお尻や両足もガーゼや包帯に包まれている。20代の電撃傷の患者さんである。
それがカンボジアで僕が初めて目にした医療の光景であった。
 
 僕は2018年4月から1年間、特定非営利活動法人ジャパンハート(以下JH)のボランティア医師としてカンボジアで活動していた。
当団体は小児外科医 吉岡秀人氏が設立した医療団体で、『医療の届かない所に医療を届ける』を団体のミッションとしている。団体が定義する医療の届かないところとは『途上国(主に貧困な地域)』『被災地』『島嶼』『闘病中の子ども達の心』である。僕はそのうちの『途上国 カンボジア』での活動に参加させてもらった。
 参加の動機はとても単純で、食事会で言われた『君は一度、途上国に行ってみたらいいよ』の一言だった。その言葉を聞いた瞬間、僕は途上国行きを決めた。そこから出発までの間に、僕の中には2つの意識が芽生えた。1つは『日本とは全く違う環境で、患者さんが幸せになるために自分に何ができるのかを知りたい』。そして、もう1つは『経済的な格差が命の格差に直結すると言われているが、それはどういうことなのかを感じたい』ということであった。
 
 衝撃の光景から始まった僕のカンボジア生活であったが、普段の外来診療の風景は、日本と然程違いはなく、沢山の患者さんが待ち合いの椅子に座り、互いにおしゃべりしながら待っている。
 時折、日本ではあまり経験しない様な状態の患者さんが搬送されてくる。
その背景には両国の暮らしや価値観における違いが存在した。
 

 
 例えば、先に紹介した電撃傷の青年は、友人の家の電線の修理をしていたところ、住人が電源を点けてしまい感電した。日本では電撃傷の患者さんは1人も経験したことがなかった。それもそのはずで、そもそも電線を素人が素手で触ることは日本ではまずない。
 しかし、カンボジアでは電気工事なども自分たちで行うのが当たり前なのだ。
 また、皮膚感染症の多さにも驚愕した。赤ちゃんから高齢者まで、頭からつま先まで皮膚と呼ばれる部分にはどこにでも感染症を発症する。ゴミだらけの生活環境、そして、手洗いや歯磨きといった習慣がないことが原因となっていた。
 

 
 交通事故も未だに多い。飲酒運転や複数同乗などの交通違反は当たり前。125cc以下のバイクは法律上免許制度がなく、小学生から乗っている。交通事故が起こらない方がおかしい環境がそこにはあった。
 また、国民の多くが自国の医療に不信感を抱いているという問題もある。そのため、病院を受診する前に伝統療法を受ける。薬を買うのに医師の処方が必要ないため、貧しい人ほど『病院に行ったってお金がかかるだけで薬はもらえない。それなら薬局に直接行った方が早い。』と言って、病院には行かずに直接薬局に行く。農村部の薬局は薬剤師すらいないことも多く、間違った処方ばかり。薬の情報が他の薬局に漏れない様に、薬局が薬の情報を伏せることもある。そのため、患者さん自身も何の薬を飲んでいるかわからない。
 

 
 また、経済力によっても受けられる医療に大きな格差がある。農村部の貧困層は伝統療法や薬局で医療を受ける一方で、首都プノンペン市で暮らす富裕層などは、お金をかけて国内や隣国タイなどの高度医療機関を受診する。高度医療機関の医療レベルが必ずしも高いとは限らないが、それでも、経済的に豊かな人は、自分で選択でき、貧困層はほとんど選択肢がないという現状がある。経済的な格差が命の格差となっていた。僕たちは主に貧困層を対象にしていた。家族を養うために仕事を休むことができず、治療継続を希望しない人、痛みや苦痛が取れれば、治療途中で通院をやめてしまう人。自分が働かないと家族の借金を返せないと、十分な治療を受けずに、工場で働き続ける少女など。時に命を守ることが絶対的な価値ではない状況がそこにはあった。医療者としての価値とそこで暮らす人々の価値のギャップをどう擦り合わせるのか。それは命が絶対的な価値であるかの様に扱われている日本では、決して経験できない、本当の意味で”いのち”と向き合うということだったと思う。