難民キャンプの「生きる力」

安田菜津紀

Natsuki Yasuda

安田 菜津紀

 延々と広がる乾いた大地、無人の村々、そして視界を覆うどす黒い煙。シャッターを切る私に、横に立つ兵士が低い声で告げる。
「道から外れないように。
まだ地雷が残っているかもしれない」

 一帯は3ヶ月前にイラク軍がIS(いわゆる“イスラム国”)から奪還した地だった。黒煙が噴出しているのはISの兵士たちが火を放って以来、燃え続けている油田だ。廃墟と化した村に人影はなく、彼方からときおり爆発音が太く響き渡る。

 イラク第二の都市、モスルの奪還作戦をはじめ紛争が長引くなか、生きる基盤を失う人々は増え続ける。現在、国内避難民となっている人々がすでに340万人。このまま作戦が進行すれば、新たに150万人が避難生活を余儀なくされると予想されている。

黒煙に覆われた村は、晴れた日にも薄暗いままだ。

黒煙に覆われた村は、晴れた日にも薄暗いままだ。

 

イラク軍が奪還した村の一つ。辺りは異様な静けさに包まれていた。

イラク軍が奪還した村の一つ。辺りは異様な静けさに包まれていた。

 

米軍の空爆、イラク軍の地上作戦を経て、村は瓦礫と化していた。

米軍の空爆、イラク軍の地上作戦を経て、村は瓦礫と化していた。

 

弱った子どもを抱えた親たち

 

 開設されたばかりの難民キャンプの一つを訪れた。入り口で、幾重もの金網に囲まれた一角に目がとまる。“スクリーニング・セクション”と呼ばれるこの場所では、次々たどり着く人々がまず、インタビューを受け、ふるいにかけられていく。武装していなかったか、ISを積極的に支援してきたか、それともそれ以外の住人だったのか。長ければ1カ月以上もの間、ここに押し込められることになる。
 管理棟の閉ざされた鉄門の前に、幼いわが子を抱えた親たちが押し寄せていた。私たちを目にするやいなや、その人の波がわっと一気にこちらに押し寄せてきた。
 「うちの子どもの下痢が止まらないんだ!」
 「今すぐ点滴を!」
 その殆どが子どもたちの体の異変を訴えるものだった。父親の腕の中で泣き叫んでいる子どももいれば、手足がだらんと垂れ下がったまま、殆ど意識のない子どももいる。最も過酷な季節を超えたとはいえ、一帯は日中40℃を超える。テントの中まで追いかけてくる熱気を冷やすだけの十分な電気はない。

 24時間対応するはずの小さなクリニックは無人だった。自由な出入りを許されない彼らに、病状を他に訴える術はない。そのがらんとした建物の裏から、子どもたちがばらばらと駆けだしてきた。呼び止めてみるとその手には、血の跡が残るゴム手袋が握られていた。「ゴミ箱から拾ったんだよ。この前は注射器を拾った」。手放すよう慌てて声をかける私に、近くで様子を見ていた老人がぽつりと告げる。「仕方ないだろう。他に遊ぶものなんてないんだ」

新らたに開設された難民キャンプで。子どもたちがどんどん弱っていく、 と親たちが口々に訴える。

新らたに開設された難民キャンプで。子どもたちがどんどん弱っていく、と親たちが口々に訴える。

 

キャンプの入り口のスクリーニング・セクション。外からも、劣悪な環境であることがみてとれる。

キャンプの入り口のスクリーニング・セクション。外からも、劣悪な環境であることがみてとれる。

 

産気づいた16歳

 

 「2年前を思い出す」と支援に携わる多くの人が語る。2014年夏、ISが急速にその勢力を拡大し、隣国からも、そして自国内でも、行き場をなくした人々が故郷からどっと逃れ、路上や建設途中のビルなどに溢れたときだ。

 「何より悲しかったのは、人々の生活の悲惨さはもちろん、世界の報道の目が殆どISの恐ろしさにしか向けられなかったことだ。ここで起きていることが辛うじて伝わるのは、自国の人間がISの人質になったときだけだ」

 避難民の支援を続ける男性の声には、静かな怒りがこもっていた。

 その2014年にシリアから逃れ、かつて路上生活を送っていた家族と生活を共にさせてもらったことがある。5人の子どもを抱える一家は今、小さなアパートに身を寄せ、細々であるものの父親の工場での稼ぎを頼りに暮らしが続いていた。長女のマルワさんは5月に訪れたとき、臨月を迎えていた。その滞在の最後の日、一家と共に川の字になって眠っていたときだった。何やら慌ただしい空気で目が覚めた。まだ窓から見える空は薄暗い。身支度を始めていた母親のルウェイダさんが、私の耳元でこう告げた。

 「病院に行かなくちゃ。マルワが産気づいたのよ」

5月、出産を終えたばかりのマルワさんと 赤ちゃん。

5月、出産を終えたばかりのマルワさんと
赤ちゃん。

 まだ16歳という若さから、医師は随分と心配したそうだ。それでも病院に運ばれてから3時間後、幸いにも安産で小さな女の子が一家に加わった。まだ名のない小さな命を抱きしめるマルワさんに、そっとシャッターを切る。ファインダー越しのマルワさんは、疲れをにじませながらも、「もう二人目がほしいわ」とほほ笑んでくれた。

 

私には夢ができた

 

 この9月、再び一家の暮らすアパートの門をくぐった。たった5カ月で彼女が随分と大人び、母の貫禄が身についていたことにまず圧倒される。サラと名付けられた赤ちゃんは、突然の来訪者にも動じず、真ん丸い目で母を見上げていた。シリアにいれば当たり前のように、出産から子育てまでを親戚や友人たちが傍で支えてくれたはずだ。今はそんなつながりからも切り離され、周囲とは言葉の隔たりもある。「それでも私には夢ができた」とマルワさんは語ってくれた。

  「この子にいつか、私が育った故郷を見せてあげたいの」。

 極限の状態はときに、本来、生きる喜びは何か、ということを浮かび上がらせることがある。終わりの見えない避難生活を耐え抜くことができているのは、心から守り抜きたいものがあるからだった。そんな故郷を知らない彼らがやがて大きくなり、社会を築く側となっていく。彼らが育っていく日々の中で、憎しみではない人のあり方をどれほど示すことができるだろうか。
 「君が“生まれてきてよかった”と思える世界を、私たち大人が築いていくからね」
 そんなことを心の中で語りかけながら、私はまた、シャッターを切った。

マルワさんの子育てを、妹たちも支える。左からマルワさん、サラちゃん、 次女のラーバちゃん。

マルワさんの子育てを、妹たちも支える。左からマルワさん、サラちゃん、次女のラーバちゃん。

安田 菜津紀