森下 暁(米国ベンチャー企業共同経営者)
ある本のあとがきに、こう書かれていました。
「ヒトやモノのグローバリズムが急激に進展していく大きなうねりの中で、日本人は『自分たちは世界からどう見られているか』という問いかけを、それまで以上に強く抱くようになった」
そこで私も、日本人は「どう見られたい」と思っているか、そして「どう見せていけば」より活力ある日本人のイメージにつなげていけるか、海外在住者の観点から考察してみたいと思います。
私はアメリカ在住15年、永住権(グリーンカード)を取得してこちらで米国人の共同経営者と会社を起こして運営しています。渡米当時には別の新興企業に勤めました。そこは輸出入に関わる事業だったこともあり職場では様々な人々に囲まれて仕事をしました。同僚はアメリカ人はもとより、ボリビア、コロンビア、フランス、南アフリカ、エジプト、インド、中国、マレーシアなどからの移民の人たちでした。
そのような環境に居ると、移民を受け入れて、そのベースに「多様性」があって事業が廻っているアメリカ企業では組織が「一丸となって」動くのがなかなか難しい、ということをしばしば目の当たりにしました。日本の会社ならある程度は想定できそうな「ほう・れん・そうの伝達」や「あ・うんの呼吸」がこちらではあまり自然には発生しないものなのです。それは組織の構成員各人の多様な価値感や心持ちが行動様式に反映されるからでしょう。こういうことを自分の肌で感じて初めて、なぜ米国のビジネス教育において「リーダーシップ」ということが極めて声高に叫ばれるのかが少し分った気がします。すなわち、カギになるのは「統制(control)」の問題ではなくて「統治(govern)」の問題である、ということです。
「やっぱ派」と「武闘派」に二極化
こちらでパーティや会合などで、在米の日本人にお目にかかる機会があります。皆さんそれぞれに苦労したりエンジョイしたりしながらアメリカという『場』で仕事されていて、お話をうかがうと面白い。「まったくアメリカはねぇ…」という話によくなるのですが、話の方向はだいたい以下の二つのうちのどちらかに向かいます、すなわち
(1)「アメリカって、ダメですよね」
(2)「アメリカは雑、大味!(だけど、ダイナミック)」
(1)については、「<やっぱ>アメリカはダメですよね」と言われることが多いのですが、正直なところ答えに困ります。というのは、この『やっぱ』というところに「日本と比べて」という前提条件があるからなのですが、そこで私が口をつぐんでいると、横から他の『やっぱ』派の方々が現れてアメリカの悪口大会が始まる。そうすると私は居心地が悪くなってスッと退席するのです。どうやら根底に「日本的なキメの細かさを、世界は解ってくれない」というニュアンスがあるようです。たしかに、海外赴任の辞令で来られた企業の米国駐在員の方々は突然に住環境や文化環境が大幅に変わってしまったなかで奮闘されているのはよくわかります。しかし、そこでこちらが「そうっスよねー」と即時に肯定同意しないと「なんなの、この人??」という眼で見られる、そのことにやや困惑します。なにやら「ムラ社会」っぽいもので。
かたや「アメリカは何かと雑ですよねー」と言われて、私が「うん、ツラの皮が厚くなりますヨ」と返すと、キョトンとした表情になるのが(1)『やっぱ』派で、それに対し「ホントホント、コイツらいったいどういう思考回路になってるのか、一度アタマの中でも覗いてみたくなりますね、まったく」とかいうようにスパッと返してくるのが(2)『ウォリアー(武闘派)型(warrior、勇士・戦士の意)』です。駐在員で来られている方の中にもいらっしゃいますが、アメリカに永住している日本人にこのタイプが多いと思います。
なぜウォリアーなのかというと、アメリカでは会議で方針を決めるの場合にリーダーが「これで行くから」と宣言しても~建設的なのも非建設的なのも含めて~意見や横ヤリが入り、日本よりもお行儀がよろしくない。ときには手順ルールの部分から話し合い(ground ruleという)業務タスクフローの落としどころを探ることもある。そこではきちんと主張しないと埋没してしまう、だから闘う(『やっぱ』派の方からすると、この闘わなければならないのがとても鬱陶しいようです)。そうやってまとめていくのを米語では「Iron Out(アイロンをかける)」と言うのもさもありなんでしょう。
では、ここで日本に目を向けてみますと、2015年11月のある雑誌インタビューで、ファーストリテイリング会長の柳井正さんが次のようなことを話されていました、「グローバルの観点で進めるには、外国人と一緒に仕事をしたり生活したりすることが必要だ。多くの日本の人はこういったことを経験してこなかった。それが不安につながり、新しいことへの拒絶感を生んでいる面もある。日本の課題解決には、多様性を重視することが求められる。「グローバル化」と「デジタル化」が瞬時に、かつあらゆるところに同時並行で、国を超えて進む、これに対応できるのは多様性しかないからだ」⑴
「なんじゃ、この常識は」
ファンとアンチが分かれると聞くユニクロの柳井さんはさすがにズバリおっしゃるなと思います。私はかねてから「100%日本国内だけで勝負するなら、日本企業はグローバル・スタンダードを気にかけることはないかもしれない(「内弁慶」、ということ)。しかし現実的にはいまはグローバル資本主義の時代、どの国の企業も世界共通のルールあるいは規格の下で競争せざるを得ないだろう」と述べてきました。これは自分が実際に世界各国に商品輸出をしたり、アジア各地の製造委託会社で米国設計の商品をOEM生産したりしてきての職業人としての印象で、もはや私には「日本ならこんな事は絶対に無いのに!」でムッとする感覚は希薄になっています。むしろ「なんじゃ、この“常識”は!?」というグローバルな驚きの連続に慣れてきたと感じています。
ただし、私は何もすべての日本人が「グローバル化に対応できるようにならなくてはならない」ということはない、と思っています。少し古いのですが2009年10月の日経ビジネスオンラインの特集で元・ソニーCEOの出井伸之氏さんがインタビューで「閉塞感を打ち破るにはどうすればいいか?」と聞かれておもしろい回答をされていますのでご紹介します(元・ソニーの出井さんもこれまたファンとアンチが分かれると聞きますが)。
「古い人を変えようと無理してはいけない。古い人を温存しつつ、新しい人や分野を大きく伸ばすということを日本はやるべきだし、一番やりやすい考え方だと思うのです。旧体制を抜本的に作り直すのは本当に難しいことなので、まずは旧体制のことなど考えずに新しいビジネスを先に走らせてしまってやっておいて徐々にこっちに本業がシフトしてしまうという、そういう方法がユニークだと思うんです。」(2)
ユニクロの柳井さんも元・ソニーの出井さんも「世界が変わるという節目であり、アジアを中心とする国々がグローバリズムに向かって大きく成長しているというのに、日本の企業はついていけるのか気になります(井出氏)」と危惧され、「ガラパゴス」と揶揄される状況からの脱却と、さらには時代に即した成長・展開のための提言されようとしているのだと私は思います。すなわち、かつては日本企業が独創性を世界市場に持ち込んで成功を築いていったが、いまではその独創性や「匠の技」にこだわりすぎて世界のスタンダードとはズレてしまった路を進んでいる、その状況を変えるための「覚悟」についてお二人は提言されている。
では、具体的にその「変換」を行なうにはどうすればいいのか?前出の日経ビジネスオンラインの特集では以下のような提言が記されています。
「『ニッポンの美学は海外では伝わらない』と自らを縛る必要はない。ビジネスマンであれば、企業の「独創性や良さ」をさらに大きな事業分野や市場へと『変換』、あるいは良い意味での “換骨奪胎”作戦を実現してゆくことに注力すべきである」と。
ウォリア―型への誘い
ひとつには、皆さんもお聞きになったこともあるのではないかと思いますが、日本の企業は製品の機能や素材にこだわりすぎ、その商品形態がユーザーに提供する“総合的価値 (Total Value)”を把握したうえでマーケティングする感覚が海外の企業に比べてまだ強くない、「良い商品を作っているのに、マーケットが解ってくれない」と感じているではないかということが挙げられます。言い換えますと「技術力はある」という主張に、技術開発力と連動するべきマーケティング・リサーチ体制も伴っているという裏付けがあるか否かが焦点である、ということです。究極的には「売れる商品」と「高スペックの商品」は必ずしも一致しない、ということでしょうか。
これはあくまでもグローバル市場という環境でのことであって、前述のように「日本国内市場のみ」がターゲットの商品についてはまた違う考え方があってもよいでしょう。企業の設備投資効率のことを考えると、そういう「内向き」の製造ニーズこそ国内生産でまかなってもかまわないけれども、いったん「視線」がグローバルになったら、例えばプラットフォームの共有化や、コスト面からは集約による「規模の経済」の追及も考えなければならないでしょう。
そうなると、いわゆるバリュー・チェーン(研究開発からアフターサービスまでの流れ)の管理も、すべからくグローバルな視点でなされる必要が生じると考えられます。そこでは、総合的なマネジメントに関しては「日本企業だから」ということで必ずしも「日本人集団」で対応する必要はなく、人材からして「多様性」を積極的に取り入れてグローバルな環境で運営することが「脱ガラパゴス」のひとつの路ではないか、ということが提言されているのではないでしょうか?
そこで、グローバルな人材と「渡り合って」いけるのは「ウォリアー型」日本人だと思うのですが、日本人がみなウォリアー型になる必要もないし、そもそもなれないであろうと考えます。奇しくも「ガラパゴス」という語が示唆するように、ウォリアー型「予備軍」も「外界」に接しないことにはタフさを発揮できないので、ユニクロの柳井さんはもっと世界に眼を向けよ、ハッパをかけられいるのだと思います。
渡り合っていくスピリット
最後に、己れの「日本人としての良さ」の部分よりもむしろ「オレ/あたしの長所」の部分にフォーカスしておいて損はないだろうと、私はこれまで感じてきました。グローバルな環境において自分という「ブランド」を管理する場面で、例えば自分の『日本人らしい細やかさ』という素地に訴求力があると感じられるならば、それを賢く使わない手はない。一方で、実力本位で値踏みされる場合には「人種・国籍という属性」が二の次である時もあるので、その際に真に必要とされるのは「仕事人としてのわたし」を効果的にプレゼンテーション/演出していく能力でしょう。
「内弁慶ではいけないか…」とすこしでもお感じになったことがあれば、それは世界に伸びていく意欲を内にお持ちである証拠だと私は思います。とかく驚きの連続である「結界の外」で「退屈しているヒマもないワ」とボヤいている「わたし」、そんな姿を想像できるなら「渡り合っていく」スピリットは十分にあるのではないでしょうか?
追記:「誰かを怖いと思ったらヘソのことを考えろ。誰の腹の真中にも同じヘソがある、そう考えたらもう僕には怖いものなんて何もない」、そう言って伝説の自動車レーサー・浮谷東次郎はアメリカで武者修行した(=渡り合った)という逸話(3)を読んで以来、私も「ヘソのこと」を考えます。そうすると、なんと言うのか、『異質な』相手に対してもリスペクトが自然と生まれてくる気がしますよ。
<出典>
- 産経ニュース・インタビュー「移民・難民受け入れなければ国そのものが滅ぶ危機 ファーストリテイリング会長兼社長 柳井正氏」(2015年11月21日)
- 日経ビジネスオンライン特集「COLD JAPAN(コールド・ジャパン)~クール? コールドな日本産業の処方箋」第一回 元ソニー会長・出井伸之氏に聞く(2009年10月14日)
- 「俺様の宝石さ – わがアメリカ横断紀行」浮谷東次郎 (著)