竹内 千絵
「FacebookやTwitterの使い方には注意しないと。誰が見ているか分からないし、企業の人事担当が見ている可能性だってあるよ。」
人事担当者がチェックしている
現在、共に就職活動に励んでいる友人が言った言葉だ。初めは本当にそうだろうかと疑っていたが、改めて調べてみると人事担当が内定候補者のSNSをチェックしていることは決して珍しくないようだ。ある調査によれば米国では8割近くの人事担当が内定前に候補者の名前をFacebookやGoogle検索で事前にチェックをしているとの事だ。日本の企業でも、FacebookやTwitterのアカウントURLを提出して下さい、という企業もある。確かに、優秀な人材を採用したい人事にとって面接やエントリーシートでは分からない本人の素を見るのに、良い意味でも悪い意味でもこういったツールでの検索はもってこいなのかもしれない。
もう十年以上連絡を取っていない知人の名前をFacebookで検索すれば、本人の投稿までは見ることが出来なくても、プロフィール写真、出身校、住んでいる場所くらいは知る事が出来る。
いくらSNSにもプライバシー設定があるとはいえ、情報はどこからか確実に漏れている。誰がどこで見ているか分からない事を考えると、プライバシーについて深く考えさせられる。
インターネットが革新的に進歩した昨今、一度ネット上に発信された情報は日本中、あるいは世界中の不特定多数の目にさらされ、完全に消し去ることは困難になる。新聞記事のように、時とともに忘れ去られることはない。残り続ける情報をいつでも簡単に検索したり掘り起こしたりできるインターネットの性質に「人の噂も七十五日」という諺は通用しない。
「忘れられる権利」を巡るEUの判例に賛否
そんな中、目下話題になっているのが「忘れられる権利」。ネット上の個人情報を巡るトラブルが増加してきており、誰もが安心してインターネットを使えるように、自分に不都合な情報を消去する権利が認められるべきだとする意見が出てきているのである。キャッチーなネーミングセンスだが、なかなか複雑な問題らしい。昨年5月、スペイン人男性が自分の過去の情報の削除を求めてGoogleに対して訴訟を起こした。スペインの新聞は彼が社会保障費を未払いし、回収のために不動産を競売につけたという記事を過去に掲載したが、問題が解決し16 年経った今でも彼の名前を検索すると、このニュースが検索結果に上がってくるからだ。この訴訟に対してEUの司法裁判所は、彼の個人情報を含むリンクを検索結果から削除するべきであるとする判決を下した。これはネット上のプライバシー保護を重視するヨーロッパでの市民の勝利だとして注目されるようになったが、この判決には賛否両論あり、問題点も多い。
プライバシーか知る権利か
何でもかんでも消せるのかと言ったら、そうではない。EUの判決以来、Googleには検索コンテンツ削除のリクエストがいくつか寄せられているようだが、再選を目指す元政治家の不祥事、医者の患者からのネガティブなレビュー等、自己利益のためのものが多かったのも事実だ。そしてこういった公共的関心があるものは消去すべきではないとの声も多い。本人のプライバシー云々の前に、その他大勢の「知る権利」の侵害になるからである。また、検索結果に表示されないようにする事は表現の自由の侵害だとする反対派の意見もあり、なかなか一筋縄ではいかないようなのだ。
専門家があげる問題点としては、以下のようなものがある。
・ そもそも情報を消そうと思っても、元々の検索エンジンの管理者が本当に当人かは不透明であるため、不正に利用される可能性があるのではないか
・ この法律が認められれば、消してもいい情報かどうかの決定権はGoogleが独占することになるが、決定条件の境目はどうするのか
・ もしこの法律を認めるとしたら、Googleはそのうち手に終えなくなり一部を自動化せざるを得なくなるのではないか
・ EUでは認められたが、米国や他の世界中の国々では未だ受け入れられておらず、文化間での考え方の相違も出てくるのではないか
日本のメディアの対応は?
では、日本の新聞社やテレビ局などのメディアはどのように対応しているのだろうか。
テレビ朝日の「放送ハンドブック」によると、前科などのある人については、社会復帰のためみだりに公表されないように法律で保護されている。1994年の最高裁判決で、公表が許されるケースとして以下の3ケースが挙げられており、この3原則に該当しないものは公表しないことを基本にしている。
1. 公表することで歴史的、社会的な意義が認められる場合
2. その人の社会的活動の性質、または社会に及ぼす影響力から言って、その活動に対する批判、評価の資料になる場合
3. 公職者またはその候補者、その他、公的な立場にある人物の適否の判断資料になる場合
また、朝日新聞社の広報部によれば、新聞社では事件発生から一定期間経過後に容疑者や被告の氏名を「匿名化」している。社会復帰の妨げにならない様に、A容疑者、B被告と名前を変える事により実名での検索が出来ないようにする対策を2009年に導入した。しかし、広く一般の公共的関心度の高い国会議員などの公人や著名人に関しては社内の規定により実名のままとしているとの事である。
新聞、テレビなどのメディアの場合は、法律等で規定が定められているため、犯罪者などのプライバシーは守られているように感じる。また、犯罪者でなくても、一般人に対するプライバシーの侵害や名誉棄損などを防ぐため、社内規定や指針・手引きなどを作っている。
それに対して新しいメディアであるインターネットの場合は、検索エンジンの管理者が不透明である場合が多いため、こういった処置を取る事は困難であると言わざるを得ない。このため、プライバシーは際限なく脅かされる危険性が膨らんでしまった。
「軽い気持ち」が後悔を生む
電車に乗って周りを見渡せば、驚くほどスマートフォンをいじっている人の割合が多い。泣きやまない子供にスマートフォンを渡す親すらいる時代だ。いわゆる「ガラケー」を持っている人の方が少数派になりつつある昨今、スマートフォンやタブレットがあれば不自由なく過ごせるようになった。情報を簡単に発信、受信出来る。従来は緊急時に連絡を取るために携帯する「電話」のはずだったのだが、この便利すぎる道具がネット社会の拡大を促進したといっても過言ではないだろう。
今までも、自分の過去から逃れられないというパターンはあったにしても、その多くは犯罪者や有名人である事が多かった。しかし今の時代は違う。私も含めた、いわゆる一般人でも簡単にその対象になりうるのである。ネット上の口コミや広告を上手く利用するビジネスも増えつつある半面、軽い気持ちでTwitterやFacebookにあげた投稿が世の中に拡散されて不特定多数の人にネット上で批判されたり、大きな波紋を呼んだりする事件も増えつつある。後々、自分にとって不都合な情報を消したいと思っても既に遅く、そのとき初めて自分の犯した行動に後悔の念が生まれるのかもしれない。
「忘れられる権利」は新しい発想で、制定されれば私たちのプライバシーの権利を守ってくれる魅力的な法律に思える。しかし、よくよく注目してみると抱える問題は未だに多く、すぐに制定されるとは考えにくい。ヨーロッパで異例の動きを見せたこの権利が今後日本を含めた世界でどのような動きを見せるのかは注目すべきところであるが、前提として大事なのは私たちがインターネットの性質をしっかりと理解した上で使用する事かもしれない。自分にとって不利益な情報を「忘れてもらう」努力をする前に、そもそも人々に「記憶されない」努力をすることもこれからは必要になってくるのではないだろうか。