森下 暁
衝突につながる問題の根っこはなにか?
アメリカ(ミズーリ州ファーガゾン市)で昨年8月に黒人少年容疑者を射殺した白人警官が不起訴となり(2014年11月24日)現地のみならず全米各地で抗議デモが発生したというニュースをお聞きになったことがあると思います。また、昨年5月ニューヨークで黒人青年容疑者が街頭で、逮捕に抵抗する過程で白人警官に絞殺されてしまった事件でも、その警官が不起訴になるという判決が出て(同12月3日)、これも抗議デモが全米に拡大することにつながりました。
その数週間後。12月22日には一連の状況に不満を持ったと思われる黒人青年がソーシャルメディアで警官殺害予告をしたうえ、ヒスパニック系とアジア系の警察官を襲撃・発砲して殺害。犯人自身も自殺するという事件が起きるなど、ここのところ「人種」をルーツとした問題がアメリカでは頻発しています。
そうした中、アメリカ公民権運動の草分けマーティン・ルーサー・キング牧師の記念館であるキング・センターが「暴力を通じては<決して>いかなる事態展開につなげることはできない」という声明を出しています。
今回の逮捕・殺害の連鎖。私は人種グループ間の不満のボルテージが上って『寛容という名のヒューズ』が飛ぶ状態にあると感じています。
すなわち、アメリカ社会は「差異や区別がなんとか許容されている間は、摩擦はあるにしても衝突には至らない。ブレーカーが落ちそうになるキッカケがときに発生する。ただ、そんなときも先鋭化のデメリットを念頭に落とし所を模索しつつ、社会契約のネゴシエーションを続ける」、そんな現在進行形の社会であるというのが今回のニュースからも読み取れるのではないでしょうか。
私は社会学者ではありませんが、アメリカに住んでみて感じる「衝突につながっていく問題の根っこは何なのか?」を今回は考えてみたいと思います。
現在私は米国・中西部、そのファーガソン市から車で2時間のところに3年住んでいます。その前は米国・東南部に13年住んでいました。
外国人がアメリカで永住権(グリーンカード)を取得するには何か「米国人にはフィルできない」技能を持っている必要があります。その分りやすい例がたとえば、インドからのITエンジニアの技能などでしょうか。
私の場合は「ジャスト・イン・タイムの物流管理」技能で永住権が取れてかれこれ16年アメリカに住んでいます。
そこで感じるのが、建国して236年の移民の国・アメリカは住む「まち」ごとに人種構成がかなり異なり、またそれぞれのコミュニティの組成には住民の経済状況と所得状況とが色濃く反映されているということです。
「アメリカは人種のるつぼ」という表現を一度は聞かれたことがあると思います。るつぼ(Melting Pot)という言葉には「融合」というニュアンスがありますが、現地にて肌感覚で観察するにつけ実際の状況は「融け合う」というよりはむしろ「並存している」という方がシックリくると感じられるようになりました。
したがって、るつぼよりも別の表現「人種のサラダ・ボウル」の方が実状に適しているという印象です。このサラダ・ボウルという比喩は、異なった具が「隣り合せに並んで置かれる」という状態を表すもので、溶け込むのではなくてあくまでも異質なものが並存・共存している様子に適しているでしょう。
共存と衝突、その解決方法
良くも悪しくもその多様性がアメリカの競争社会の原動力になっているという見方はむしろ一般的かもしれませんが、ではいったいどうやってまとまっているのか?(あるいは、まとまらないままに走り続けているのか?)。
それは、ファーガソン事件の問題の根っこのところにも関わっている人種や階層間の「境界線の問題(Boundary Issues)」をコミュニティがいかに取り扱っているのかにかかっていると言えるのではないでしょうか。
「サラダ・ボウル状態」で並存している異なった階層(富裕・中流・貧困)および異なった人種がうまく住み分けを行なっているうちはいいけれど、いざアメリカンな多様性が「違い」として作用しだすと、境界線において摩擦やテンションが表面化してくる。
個々人のレベルでのぶつかりならそれなりのケリがついていくところですが、問題がコミュニティ・レベルでの軋轢となってくると、タウン・ミーティングやヒアリングを通じて「公開で」討議されることもあります。
ただし、これはあくまでもプロセスが「公開」なだけであって、討議が偏りなく公正であるのかとか最終決議がフェアなものかとかは、全く別の問題です。
というのもその多様性がゆえに、いったい「誰にとってフェアなのか」「誰にとっての偏りなのか」というので押し問答し議論が紛糾することもしばしばあります。さらには情報戦に進展していき、デモしたりソーシャル・メディアをプラットフォームとしての署名活動をしたり、さらにはメディアへの露出を通じての主導権の奪い合いになったりする、醜い側面ももちろんあります。
私が実際に垣間見た衝突の一例を紹介するとしましょう(人種のぶつかり合いといったシビアなものではありませんが)。
私が以前に住んでいた人口50万人のジョージア州の州都アトランタ市は通勤・通学には自動車がないとどうにもならないというところで、全米でも交通渋滞ワースト都市の一つに数えられています。公共交通機関といっても基本的に市営電鉄が縦横十字に走っているのみで、あとはそれに連絡する市営バス路線網が張り巡らされています。かねてから、市の中心部に自動車でアクセスしてくる人がもっと鉄道を利用するようにして渋滞の解消にもつなげようと、鉄道や地下鉄の通るエリアを拡張しようという動きがありました。
これは少し前のことですが、では「どの地区に敷設を進めるか」についての市議会主催タウンホール・ミーティングの模様がテレビの報道番組で取材されていました。
そこで注目されたのが『やってもらうのは構わないが、自分のコミュニティには敷いてくれるな(N.I.M.B.Y. = Not In My Back Yard)』という意見があちこちから上がったこと。
その理由として(1)鉄道が乗り入れると「クルマを持つ経済的余裕のない人々が自分たちのコミュニティに入ってきやすくなってしまう」から、(2)それにつれ不動産の評価が下がることにつながるから、ということを発言者たちは主張する。「これでは進むものも進みませんね」とニュース・キャスターもやや熱くなっていたのを覚えています。
後日談として、鉄道拡張は遅々として進まないのを横目に、主要高速道路に「カープール・レーン(運転者以外に乗員がいると専用(優先)車線が通行できる優遇策のこと)」が増えたそうですが、こういったところもプラグマティックなアメリカならではかもしれないと感じます。
星条旗の下に
良くも悪しくもこういったガチ度(directness)はアメリカならではで、ひとつには「コトの落としどころ」に到達する経路が、日本やヨーロッパなど伝統のある社会とは決定的に違う、ということがあるのではないでしょうか?
米国史研究者の猿谷要先生が“アメリカ・歴史の旅”という本の中で『(アメリカは)自分たちだけの力で無から創りあげた国だけに、他の国ほど国家の中心になるものが具体的な形で存在していない』と書かれています。
これは渡米前に読んでもピンと来なかったかもしれませんが、長年こちらに暮らしてみると「鋭いな、視点にリアリティがある」と実感するところです。
すなわち、多様な地理的・文化的背景を持った移民やその子孫らがいかにして『並存』を→『共存』に近づけていくか苦心しながら、アメリカ社会を変容(トランスフォーム)させ続けている姿を反映している、という感覚です。
アメリカには「合衆国への忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)というものがあり、これはいわば米国の国是のひとつに数えられるものです。しばしば米国の公式行事などで暗誦されるもので、その一節に『(アメリカ合衆国は)自由と正義あるひとつの国、分断されべからざるひとつの国』というのがあります。
今回のファーガソン事件やその他の昨今の人種問題で表面化したのが「自由と正義に関し、分断する」アメリカ、でしょう。移民の国でありかつ多民族が存在する以上、統一(=非・分断)を確立し維持するのが容易でないのは言うまでもないことはアメリカの歴史の流れを見れば明らかでしょう。だからこそいわば前のめりで、理念としての「ひとつの国へのコミットメント」を表明する必要がある。必要であるほど脆弱な基盤であることの、それは裏返しでもあるかもしれません。
移民のパワーもあり流転し続けるアメリカ社会は「成熟社会」とはほど遠い。そしてまとまるのが極めて困難なものがまとまろうと努力はするものの、「譲れないもの、譲りたくないもの」をめぐっての摩擦が絶えない状態にある、それが日常生活でも垣間見えてくるのがアメリカです。
ただ、自由主義と資本主義をベースに『共存する』ことが国の相互的繁栄につながるんだというおぼろげな理解は~ある程度~シェアされていると信じてみなアメリカン・ドリームを追及するわけですが、その過程で「フェアじゃないと思うことには異議を申し立てる権利が保障されている」とひとは信じる。
この「信」をヨーロッパ人が「アメリカ人にナイーブさ」と揶揄するところでもありますが、その極めてダイレクトな『摩擦→対峙→克服』という流れはいかにイビツなものであるにせよ、アメリカ合衆国のエネルギーに繋がっていることは確かでしょう。