三宅洋平氏の「選挙フェス」に参加して

Kazu Shimura

Kazu Shimura

志村一隆

 参議院東京選挙区から無所属で立候補している三宅洋平氏の街頭演説を見に行った。彼の街頭演説は、「選挙フェス」と銘打ち、ミュージシャンやDJが音楽を奏でながら進行する。自分が見たのは、7月5日の高田馬場駅のBIGBOX前の広場と新橋駅前SL広場の2箇所。どちらも300-500人くらいは集まっていた。

image 三宅氏の演説は、ほぼ改憲反対、自民党の改憲草案への批判が中心である。それ以外は、大企業中心のアベノミクスへの批判など。これは三宅氏の前に演説に立つ山本太郎氏(生活の党と山本太郎となかまたち代表)の主張と同じ。山本氏や三宅氏の言葉に、集まった聴衆は手を挙げ、声をあげて盛り上がっている。

 この「選挙フェス」だけを見れば、これだけ動員力があり聴衆を説得し、LINEや動画を駆使するデジタル選挙戦略も秀でているのだから、もっとメディアも他の護憲政党も注目していいのではないか。小沢一郎氏は「選挙フェス」に参加したらしいが、他の政党が浮動票を集めるのに彼ともっと協力すればいいのにと思った。

 しかし、そうはならない。彼の政策に問題があるのか?風貌か?経歴か?そもそもそれほど票は稼げないのか?よく考えると、選挙フェスの音楽はメインストリームなものではないし、風貌もマスで人気が出そうな感じではない。そういう意味では、三宅氏はニッチな存在なんだろう。

 

会社国家 = 首相は社長、国民は社員

 

image 橘川幸夫氏の「森を見る力」という著書に、「会社国家」という言葉が出てくる(109頁)。会社国家では、国家の方向性を示す必要性はなく、最小コストで最大効果を得られる手段=政策を実行すれば良い。「社会を建設する政治家の役割は終わって(103頁)」いて、選挙では「国家の経営能力」が問われているという。

 この会社国家というコンセプトは、安倍政権や三宅洋平氏の限界などについて考えるときに、自分的にはピタっと嵌った。

 アベノミクスは、まさに効率性を重視する会社国家の経営手法である。自民党改憲草案の緊急事態項目など権力を経営陣に集めるコンセプトや派遣法などの労働政策などは、国家を会社と見立て、安倍首相が社長であると考えるとスっと理解できる。

 そして、安倍首相が社長であれば、国民は社員である。社員は仕事をしなければ解雇されるし、会社のルールから逸脱すればクビになるかもしれない。延々続く会議に「無駄だ」と思い「あまり、口うるさいことは言わず」なるべく早く会議を終わらせる方に神経を集中させる。ただ、効率的という言葉には敏感である。会社ではそれが唯一の行動規範かもしれない。

 三宅氏は、前回の参議院選挙で投票しなかったは47.35%の人たちを「政治に興味のないセンスある人たち」と呼ぶ。その層が投票すれば、変化が起きると考えている。ただ、よく考えれば、この層の人たちこそ、議論や主義主張を持つのは効率的ではないと思っている人たちである。会社員から見れば、三宅氏の長髪、髭な風貌は会社国家からドロップアウトした外の人である。そんな三宅氏の主張は、最初からシャットアウトされているのではないか。

 では、「選挙フェス」が政治のイノベーションのように広がる可能性はないのだろうか。可能性はあると思う。今の三宅氏の主張は、効率性重視の新自由主義の対極にあり、多様な社会をというものだ。つまり、効率性は二の次である。そこで、効率よく多様な社会を達成するにはどうしたらいいのか?とか、多様性を持った組織・社会の方が効率が高いと言った、「効率」という視点からモノを語ればどうだろう。それが、47.35%との共通項を見出すことにつながると思う。ともかく、効率的な会社経営と非効率的な民主主義のやり方、双方は別個であるという理解を広めてほしい。

(参考)

  1. 「アベノミクス」と「憲法改正」総選挙で露わになったも(君和田正夫、2015年1月):2014年12月の衆議院選挙について。“私には国民のための大義ではなくて「安倍首相自身の大義」があったと思えます。それは「憲法改正」と、それを実現するための「長期政権」の確立です”
  2. 憲法をボケ扱いしてはいけない(君和田正夫、2015年8月号):”首相補佐官の言うように、現実を優先させて憲法の解釈を勝手に変えられるなら、社会や国は、安定した存立基盤を失ってしまいます。
  3. むし返される放送法の議論(君和田正夫、2016年3月号):「解釈の余地」を生ませる自民党改憲草案の21条表現の自由について。
  4. 改憲、日本会議、参院選(志村一隆、2016年7月)

(その後)

 三宅洋平氏は落選(257,036票)。ある人が「音楽を使った選挙活動は昔からあった。けれど、それで政権を取ったという事例はない。そこに限界を感じる」と言っていた。どうなんだろうか。新鮮に思った層を組織的に盛り上げる”運動”が必要なんだろう。