関口 宏
この7月、夏休み間近の母校を、久しぶりに訪ねる機会がありました。
校門をくぐる前から感じ始めていた静かな昂りは、懐かしいレンガ作りの校舎や、チャペルの壁を伝う緑の葉に、忘れかけていた記憶がゆるやかに呼び起こされ、すっかり私を、半世紀前の空間に引き戻すのでした。
小学校から大学まで16年間通い続けたこの学校には、人並み以上の何かが折り重なっているようで、「ああ・・・ここだ!いつも仲間達と待ち合わせしたのは」とか、「ここで慌ててノートを写させてもらったなー」とか、「夕方、ここで仲間達と別れるのが淋しかったんだ」というふうに走馬灯が廻り始めました。
構内は、半世紀の間に相当改築・増築が繰り返されたようですが、刈り込まれた芝の中庭とか、授業をさぼった時の校舎間の細い道など、所々に、まだ当時の風が吹いているように感じられる場所もあって、しばし、あの若き日に想いをゆだねていました。
16年通った月日の中で,この学校がもっとも華やいだのは、長嶋・杉浦・本屋敷先輩たちが、六大学野球で大活躍した時代。
私はまだ中学生でしたが、神宮球場に通い詰め、長嶋茂雄先輩のリーグ新記録・8号本塁打をこの目で確認しています。
また試合が月曜・火曜にずれ込むと、学校も半ドンにするという粋な計らいをしてくれたもので、神宮球場外野席に第2応援団席まで設けられるほど、学校挙げての盛り上がりをみせました・
というのも、当時我が母校・立教は、六大学の中でも一番学生数の少ない規模の小さな学校で、小ぢんまりとした良さはあったものの、全国的にはそれほどの知名度もなく、「東京六大学とは?」と訊いてみると、「えー、早・慶・東大、えーー明・法、えーーーー、何だったっけ、えっ、日大?」なんていう話はザラでした。
だから先輩達の活躍に学校も大喜び、キャンパスも華やぎ、我々も鼻高々の日々を送りました。
そして高校から大学へ。怖いもの知らずの若者は、校歌にも謳われている「自由の学府」の意味を、やや勘違いしたかのような課外活動中心の日々を送り、東京オリンピック招致に湧く時代の中で、大いに「自由」を満喫したのでした。
そんな暢気な学生も、やがて卒業の時を迎え、後ろから来る後輩達に押し出されるようにして、(一貫校ではそれをトコロテン卒業と言っていました)キャンパスを後にしたのですが、しばらくは突然のギャップについて行けず、朝目を覚ますと、学校へ行こうとしてしまうくらい、あの日々は天国だったのでしょう。
さてあれから半世紀。今の学生さん達や如何に。
今回、300人ほどの学生さん達と意見交換の場を持ちました。
テレビの話、選挙の話,就職の話等、あれやこれやの四方山話になりましたが、終始私に押し寄せて来たものは、またまた私を半世紀前に引き戻すかのような、若き瞳の圧倒的なキラキラさでした。
どんなことにも興味津々、聞き漏らすまいとするかのような目の輝き。
「私にもあの頃、こんなキラキラがあったんだろーか」と思いつつ、こんな年寄りのつまらぬ話を静かに聞いてくれることに恐縮し、また感謝して帰ってきましたが、「やっぱり、“若さ”って、いいなー!」の余韻がいつまでも残りました。
そして8月。
あの学び舎は今、学生達の姿が消え、蝉の声だけが響く中に、ひっそりと佇んでいるのでしょう。
あの目のキラキラした学生達はどうしているのでしょう。
アルバイトですか、就活ですか、クラブ活動ですか。
べつに何をしていようとかまいません。それこそ「自由の学府」です。
でもどこかで、この夏休み中にちょっと立ち止まって、あのキラキラした目で周囲を見渡してみて下さい。
世界は今、大きな畝裏(うねり)の中で喘いでいます。
離脱しかけているユーロ諸国、内向き傾向をみせるアメリカその他、その隙をねらうテロ、先行き不透明な世界経済、そして一強体勢の日本の政治。
間違いなく、これまでの大人達が「良し」として来た価値観が行き詰まっています。
世界が、そして日本がどこへ向かうのか、誰にも分からなくなってしまった、と言っても過言ではない大きな畝裏の中にいるのです。
そこをこじ開け、切り開いて行けるのは、これからの時代を担う君たちです。
そこで、そんな時代を作って来た者の一人ではありますが、自戒を込めてエールを送ります。
『 頼んだぞ! 』
テレビ屋 関口 宏