学生と社会とメディアを結ぶ触媒に

Kiyoshi Okonogi

Kiyoshi Okonogi

小此木 潔

 私は大学の教員として学生たちがどのように新聞と接しているかを知るにつけ、両者の関係の希薄化を実感し、先行きを懸念している。それでも絶望はしていない。

 秋学期のスタートにあたり、授業中のアンケートで「新聞を、どこで、どのように読んでいますか?」と約100人に聞いたところ、「紙の新聞を読んでいる」という答えは半分を超えた。春学期にも同様の調査をしたが、その時よりもだいぶ増えた印象である。調査対象の多くが新聞学科の学生で、自宅通学組も少なくないうえ、私が「自分への投資だと思って新聞を読んでください」と言っていることを反映しているのかもしれない。実際に読む時間は5~10分などと短い人が多いのは残念だが、若者が新聞を読まなくなったと言われる割には、まあまあの比率だろう。「スマートフォンのアプリで」「ネットでデジタル版を」という回答もかなりあり、「ニュースをまったく読んでいない」というのは1割程度だった。

 学生たちの「新聞離れ」と一口に言っても、テレビのニュースやスマホ、パソコンで低料金あるいは無料のデジタル新聞を読み、彼らなりにニュースに接している面はあるのだ。いうまでもなく「新聞」とはもともと「ニュース」のことであるから、若者は現代の技術環境やふところ具合に応じて、それなりに新聞と接している、といえる。

 

「図書館で読んでくれ」

 

 「ネットだけだと見過ごしてしまう記事が新聞なら目に入ることもあり、自然に視野が広がる」「就活に役立つ」「メディア・リテラシーとは、長所も短所も知ったうえで、社会を深く知るために新聞などを活用することだよ」などと、いろんな語り口で私は紙の新聞の効用を説いている。だが、それで紙の新聞を買う人が増えるほど簡単ではない。学生たちはたとえバイトに精を出していて収入があっても、毎月のスマホ料金の支払いや衣服、サークル活動や付き合いなどに金がかかる。紙の新聞の優先順位は低い。私は「紙の新聞を購読するお金がない人は、せめて図書館で読んでください」と言い続けている。実際、「最近は図書館で毎日読むようになった」という学生もいる。

 講義を進めるにつれ、学生たちは新聞を購読したり読んだりしていなくても、かなり興味を持っていることがわかってきた。民主主義社会における新聞の役割や、いかに作られているか、記者はどんな気持ちで記事を書いているか、経験をまじえながら話すと学生たちの多くは真剣に聞いている。「世界を叡智でつなごう、と大学はみなさんに呼びかけていますが、その精神で人々をつなぐ仕事をするために、ジャーナリストを目指しませんか」と語りかけると、「今後の選択肢として考えるきっかけになった」「書き手を想像しながら記事を読むようになった」などと授業後のリアクション・ペーパーに書く学生もいる。そうした反応に接すると、自分自身が励まされたような気分になる。

 

新聞の価値の再構築を

 

 こうしてみると、さまざまなメディアの競合状況のなかで新聞の価値を再構築し、紙だけにこだわらないが紙面を読むことを軸に現代の情報社会を生きてゆくことの効用を広く認識させるような努力こそ、新聞の生き残りに必要ではないかと思える。

 むろん、それには大変なエネルギーを要する。単なるPRではなく、崩壊しつつある新聞の社会的価値を再建し、新たな条件下で創造することが求められているからだ。新聞が月極めで「とる」ものだったのは昔のこと。「新聞は朝日、テレビはNHK」といった幻想がまかり通るほど、新聞が情報の確かさで広く評価されていた時代も過去のものになった。朝日新聞の「記事取り消し」事件は、そのことをあらためて歴史に刻むメルクマールになりかねないところが一層悲しい。新聞の生き残りをかけた調査報道の蹉跌という側面もあるだけに、記者たちが必死の努力によって名誉を挽回し新聞の存在意義を今後の紙面で日々実証してくれることを祈らずにはいられない。

 残念なことだがもともと、「新聞は、本当のことを書かない」というイメージが学生たちの間で広がっていた。お金がないから買えないのではない。読む値打ちが乏しいから買わない、という面もあるのだ。これは恐ろしいことだ。新聞産業がどうなるか、という立場で心配しているのではない。人々が新聞という選択肢を失うことで、ネット空間での過激な言論に流されやすくなり、結果としてエーリッヒ・フロムが著書『自由からの逃走』で描いたワイマール体制からファシズムへの転落のような悲劇が再現されかねないと危惧するからである。一方では、新聞が戦前のように人々を戦争に駆り立てるプロパガンダの道具となる危険もあり、いちがいに新聞が読まれさえすればいいというものではないが、少なくとも戦争という悲劇を回避し民主主義と平和を保つには、新聞と人々との間で信頼に基づき支え合う関係が成立していることが不可欠だろう。

 新聞が学生たちの不信にさらされていると気づいたのは3年前、大学の非常勤講師になった時だった。「東日本大震災では、新聞情報よりもネットやラジオのほうが正しかった」という説があたかも自明のことのように学生の間で語られていた。「やがて疑いは晴れてゆく」と、その時は考えた。組織ジャーナリズムの力量において、新聞が劣っているはずがない。ブロガーなどは取材もせずにいい加減な主張を垂れ流し、若者たちを惑わしているにすぎない、と多寡をくくっていたのである。

 しかし、今春、ほぼ同じ意見をゼミの学生たちから聞いて、いささか驚いた。私は「新聞社は人と時間をかけて、みなさんが思うよりもきちんと取材している」などと力んでみたが、「パニックの引き金を新聞が引いてはいけないという自制のあまり、政府や東電の発表に依存しすぎた面はあったね」などと反省の弁も述べざるをえなかった。

 

「吉田調書」報道への反応

 

 最近は朝日新聞の「吉田調書」報道について、判断の誤りやチェック体制が機能しなかった背景について講義で話したり、実際に調書を読んでその核心は何かをゼミの学生たちに考えさせたりしたところ、学生たちの反応に健全な受容力あるいは批判精神とでもいうべきものを感じて、嬉しかった。どんなにとげとげしい言葉や、失望感がリアクション・ペーパーに書かれているのだろうかと思いきや、次のような感想が目立ったのだ。

 「書くことの責任がいかに重いかを考えさせられた」「吉田調書の意義をきちんと議論せずに朝日批判ばかりやるのは目くらましではないか」「朝日新聞の記者が調書を公開させたのだ。反省は必要だが、権力をこわがらず真実を国民に伝えるジャーナリズム精神を貫いてほしい」…

 困難な状況にあっても、希望の光がなおキャンパスに差し込んでいると私は感じた。「日本の学生は社会に無関心」という留学生の批判を聞くと、やっぱりそうかと思う半面、東日本大震災のボランティアや、台風被害のフィリピン救援募金に立った学生たちの姿を見ると、私は若い人々のこれからの活躍に期待したいと強く思う。

 バトンを引き継ぐべき若者は、目の前に数知れず存在している。学生たちがやがて叡智で世界をつなぐ存在になるために、私は彼らとメディアそして社会を結ぶ触媒のようなものになりたい。触媒はそれ自体、変化しないものだが、学生たちの熱意に応えようと努力すれば、私もまだ少しは変われるかもしれない。