暮らしの主役に座るということ

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Takahashi Hiroyuki

 今年2月に行われた東京都知事選挙。たまたま仕事の打ち合わせで新宿駅を通りかかったとき、ある候補者が「政治を私たちの手に取り戻そう!」と熱弁をふるっていた。一体、誰の手から取り戻すのか。聞けば、有権者の意識からかけ離れてしまった既存の政治家から、本来あるべきところ、すなわち有権者自身の手に取り戻す、とのこと。果たして、私たちは政治を奪われてしまったのだろうかと、強い違和感を覚えた。

 日本は国民主権である。主権者は、私たち国民一人ひとり。20歳になるとすべての国民に投票権が与えられ、まちづくり、国づくりに間接的に参加することができる。つまり、政治は今なお、私たちの手の中にあると言える。私たちは、政治を奪われたのではなく、自ら手放してしまったのではないだろうか。4年に一度の選挙、誰かに頼まれたから仕方がなく投票所に行って名前を書き、後はどうぞお任せの白紙委任。今の政治の劣化は、私たち主権者が主権者たりうろうという努力をサボタージュしてきた結果なのだと、私は思う。

 
観客席で高みの見物
 

 3年前まで、私は地方議員を務めていた。今は後援会を解散し、食に関わる事業をしている。転身してすぐ、私はあることに気づいた。有権者と政治家の関係と、消費者と生産者の関係は似ている、と。有権者も消費者も観客席の上で高みの見物をし、グランドでプレーしている生産者と政治家に注文だけ付けている。自分は安全なところにとどまり、決してグランドに降りようとしない。今の時代、政治すらも消費の対象になってしまっている。あの一世を風靡した橋下徹も今や消費され尽くそうとしているのだろうか。

 議員時代に取り組んだ医師不足、地域医療の崩壊の問題の根源も同じだった。患者が医師を消費しているのだ。土日や夜間に、軽症でも救急車を呼び、病院に駆け込む。医師は神様ではないので、力の限りを尽くしても救えない命がある。しかし、残された人は医師に人殺しとすごみ、すぐに訴える。こうしてリスクの高い小児科医や産婦人科医になろうとする若者が減っていく。患者の過剰なまでの医師への攻撃が、医師を疲弊させている実態がそこにはあった。それが医師不足の問題にそのままつながっていた。

 兵庫県立柏原病院で数年前にあった取り組みを紹介しよう。私が県議時代に調査で柏原病院を訪ねて知ったことだ。

 小児科医がひとり、またひとりと病院から去り、柏原病院は小児科消滅の危機に瀕していた。お母さんたちは困った。最初は、議員に陳情したり、4万人分の署名を集めて行政に持っていったりしたが、「柏原だけ特別扱いできない」と、行政は動かなかった。そこで、お母さんたちはなぜ小児科医がこうして次から次へといなくなるのか調べた。そして自分たちに原因があることを知った。土日や夜間などの時間外診療を安易に求める「コンビニ受診」の結果、小児科医は疲弊していたのだ。

 お母さんたちは、「小児科を守る会」を立ち上げ、医師を大事にしようという運動を始める。ステッカーをつくって車や商店街に貼ったり、子どもたちに医師への感謝の手紙を書かせたり、勉強会を開催したり、当事者として課題解決に取り組み始めた。結果、1年後には時間外診療が4分の1に減少した。ゼロになりかけていた小児科医が5人に増え、小児科医は存続することになった。

 
お金で解決する社会
 

 大量消費社会では、医療や食にとどまらず、政治、介護、教育、メディア、まちづくり、そして身近な暮らしのありとあらゆる課題解決に至るまで、ほとんどお金で買える。つまり、みんながお客さんだ。そうして、どこもかしこも効率ばかり求められ、生産する側が疲弊している。消費者の要求は、できるだけ安く、早く、たくさん、安全に、いいものが欲しいであり、それに応えようとして生産者が疲労困憊している。

 もちろん、その要求に応える努力が生産する側に求められるのは言うまでもない。しかし、それが限度を越え、生産する側が弱体化していくと、担い手不足を招き、食の安全性への疑問や偽装などの問題が顕在化し、巡り巡ってその恩恵に預かる消費者は困ることになる。それが今の日本社会の実像と言える。あらゆる分野で同様の問題が起きている。

 消費する側から生産する側に回るということは、誰かの手に一方的にゆだねるのではなく、当事者になるということに他ならない。柏原病院のケースは、典型的な例だ。なにもみんなが生産者そのものになる必要はないが、自分のできる範囲で生産する側に参加することはできるはずだ。食を例にあげれば、手間をかけているこだわりの生産者のつくったものを選ぶ、買う、食べる、知る、交流する、訪れる、手伝う、仲間に宣伝する、SNS(ソーシャル・ネットワーク・システム)で情報発信する、定期購入する、リスクシェア(危険分担)する、自分の専門分野の知見を活かしてアドバイスするなど、その人に応じてやれることはいくらでもある。

 
「私はどうするか」のスイッチを「オン」に
 

 農協がどう、政治がどう、役所がどう、ということも大事なことだが、「私はどうするか」が今の日本社会には決定的に欠けている。課題解決を他人の手にゆだね、ダメだダメだと批判してみても、一向によくなってこなかったのだから、自分が課題解決に当事者としてグランドに降りるしかない。そうすれば、今よりよくなる。

 消費者が生産する側に回れば、もはや消費者ではなく、生産者がつくったものを活かす生活者になり、生産する側の質が向上していく。柏原のお母さんたちは、医師を消費するのではなく、活かす生活者となり、自分たちに降りかかろうとしていた困難を自ら乗り越えたのである。自分の暮らしを取り巻く課題解決に主体的に参画することは、自分が暮らしの主役に座るということを意味する。詰まるところ、国民主権、民主主義とはそういうものだ。

 暮らしの主役に座るとは、暮らしを自分の手に取り戻す、つまり主体的に生きるということを意味する。豊かだけど何かが足りない。やりがいや生きがい、生きる意味を喪失している日本人が増えている。完成された消費社会に飲み込まれてしまった日本人の心にある「生きる」のスイッチを、オンに変換するカギは、この「つくる」にあると感じている。