障害者と健常者の世界をつなぐ“翻訳”目指す

Y. Hori

Y. Hori

堀 雄太

 もしあなたが、職場などで急に「この人、障害者だから、配慮してあげてね」と言われたら、ギョッと驚き、困惑するのではないでしょうか、そして、おそらく大半の人がそのような反応をするのではないか、と思います。しかし現在、日本の障害者福祉の世界では、往々にして障害者に対する配慮の求め方と「配慮を求められた側」の困惑ぶりに示されるような、ミスマッチ的な事態が起こり、むしろ増加傾向にあるだろう、というのが、私の印象です。私自身も幼年期の骨腫瘍による右足義足の障害者であり、発熱が原因で左耳聴力0、そして原因不明の脳出血を経験しました。

 私は、上記の障害等を負いながら、中小の民間企業に勤め、現在は障害者雇用で採用された政府系機関で働いている人間です。自分が障害を負った経緯などはまた別途書かせていただければと思い、ここでは「配慮される側」と「配慮する側」の関係、つまり障害者と健常者の関係について書いてみたいと思います。

 

障害者に対する情報不足

 

 冒頭で書いた「この人、障害者だから、配慮してあげてね。」というケースについて、私自身の経験上、健常者から障害者への差別心によるものではなく他に原因があると考えています。原因は、差別心よりも無知ではないでしょうか。障害者への無知。“無知”という言葉が不適切であるとするならば、言葉は何でも良いのですが、要するに、障害者に対する情報が足りていない、ということです。

 実は、こういった事は障害者の話だけではないと思います。例えば。バリバリの日系企業において、「明日から、外国人が一緒に働くことになった」と言われれば、既存社員は当然戸惑うでしょう。他方、ごく普通の地方公立小学校で、「東大卒のエリート教員が着任することになる」と告げられれば、保護者含め、喜びもあるでしょうが、それよりも全く異質な人間が、自分たちのコミュニティに入ってくることに当惑することの方が先行するかもしれません。

 そういった気持ちの原因は、外国人差別、学歴(逆)差別というよりは、今までの自分(たち)と違った環境にいた人間とうまくやっていけるのか、という不安から生じるものであることはイメージしやすいかもしれません。そして、出来ることであれば、自分たちの生活の安定のためにも異物の来訪は避けたいのは誰しも同じことでしょう。

 障害者と健常者の問題は、本質的に上記と似た部分が多々あると、障害者の自分は考えています。

 そもそも障害者と言われる人たちはどのくらい存在するのでしょうか。内閣府の発表によると、我が国の障害者数は、およそ787万人。その内訳として、身体障害者・約393万人(私はここに含まれる)、知的障害者・約74万人、精神障害者・約320万人、現在の人口(約1億2704万人)から考えると、およそ16人に一人が障害者、という計算になります。(出所:内閣府「平成26年版 障害者白書」

 しかし、私の場合、10歳の時に障害者となりましたが、当時の患者仲間など病院関係者を除くと、近年障害者事業に関わるまでの約20年間、知り合った障害者の数は、両手で収まる程度です。読者諸氏におかれても、仮にfacebookの友達が1,000人いたとする場合、障害者の友達はおよそ62人、という計算になりますが、果たしてどうでしょうか。(もちろん、顕在的に見えない障害を持った方もいらっしゃるので、一概には言えませんが。)

 

知り合う機会が増える半面、対話が不足

 

 こうしてみると、原因は様々でしょうが、障害者と健常者が知り合う機会が極端に少ないのが、今までの日本社会でした。その一方で、我が国の政策で、2013年4月の障害雇用比率の改正、2014年1月の国連による障害者差別禁止条約の批准、さらに2020年東京パラリンピック開催決定によるバリアフリー推進など、さまざまな出来事の影響があり、障害者の社会進出が進み、障害者と健常者の出会う確率は増加し始めています。これ自体は、大変素晴らしいことなのですが、そうした「障害者の社会進出を促そう!」という制度的な部分(私は“雰囲気”とも考えています)が進む半面、実際の現場での障害者と健常者の関係性をどのように築くかといったソフト部分は、まだまだ手探り状態であると感じています。

 先述したように、コミュニティに“違った”人間が入ってくるということは、受け入れる側に、今までは違う何らかしらの差異が生じることは往々にして存在します。

 障害者の場合の代表的なケースとして、「障害者に、どう接したら、話しかけたらよいのかわからない。だから‟遠慮”がちになる」というものが考えられます。

 自身のことを振り返ってみると、私は、最初に就職した会社の人事担当に障害のことをある程度説明したつもりでしたが(この時は、一般枠で採用)、現場に私の障害のことは全く伝わっておらず、最初の上司に「(障害の事)聞いていい?」と、3回くらい念を押されたことを覚えています。私としては、あっさりと「何が原因?何か配慮する?障害のこと以外では、頑張ってね」くらいに聞いてくれても良いと思うのですが、それは障害者へのマナーというよりは、‟遠慮”のようであると感じており、少なくとも、こうした問題は「健常者側の差別心(拒否の気持ち)」ではないと思っています。冒頭に申したように、障害者への情報不足が原因であると考えられますが、その‟遠慮”こそが、かえって障害者の孤立を生んでいるのではないでしょうか。

 この情報不足を補うためにも対話が必要なのです。そして、対話の発信は障害者側の方こそ、先手を取っていくべきだと考えています。

 右足義足の障害者である私自身がこうしたことを書くのも、例えば、同じ障害者である視覚障害者の大変さはイマイチわからないからです。友人に、全身に激痛が生じる難病を抱えている人間がいますが、申し訳ないですが、その苦しみはよくわかりません。これは笑い話ですが、両足義足の友人は、鬱を抱えている人間と仕事をしていますが、鬱を理由に休みがちなので「診断書持って来い!」と叱ったそうです。決して悪意があるわけではなく、ある程度、障害に理解がある障害者同士でもこんな感じです。ましてや障害を負っていない、家族や友人にも障害者がいない健常者はいわんやです。まずは障害者(関係者含む)側もこの事実を、客観的に認識しておく方が健全ではないだろうか、と考えます。つまり、自分の方から、自分はどのような障害を抱えていて、どのような配慮が必要なのか、必要ないのか、などを伝えていくことが必要なのだと思います。私の経験上、待っていても何も始まりません。もちろん、職場や学校、地域など、そのコミュニティを構成している人間によっての差や、障害の軽重によって違いはありますので、一概には言えませんが、気持ちの在り方として「自分から伝える」ことは重要だと感じています。

 では、健常者側が何もする必要が無いか、というと、もちろんそんなことはありません。健常者側も障害者に対して、興味・関心を持ち、一緒に生活や仕事を行う環境づくりを、少しずつでも行っていくことが必要となってくるでしょう。障害者側の声にも、真摯に耳を傾けていく必要は十分にあります。これは、決して、人道的見地だけからの話ではないのです。

 まず第一に、ご存じの通り、少子高齢化による日本の生産人口は今後縮小の一途をたどっていきます。(もちろん、今でも十分立派に働いている障害者の方、むしろ健常者よりも稼いでいる方もたくさんいますが)障害者がその力を発揮できる職場環境や、社会環境の創出は急務ではないでしょうか。

 

誰もが抱えるリスク

 

 そして綺麗ごと抜きに大事になるのは、次に書くことかもしれません。脅かすつもりはありませんが、今は五体満足の世界を謳歌されている方も、交通事故や突発的な病気などで、明日ご自分が障害者になるかもしれない、ということです。ご自身ではなくても、家族や友人がその状況に直面するかもしれません。私自身、自分が骨腫瘍で右足義足の障害者になるなんて、夢にも思っていませんでした。

 誰しも、そうしたリスクを抱えているにも関わらず、より良い障害者の働く環境や生活環境の構築に対して、無頓着であることは、残念ながら健全とは言えないでしょう。もちろん、関わり方は人それぞれあるでしょう。ただ、障害者に配慮した社会を築くことは、現在の当事者のためでもありますが、同時に未来の自分や家族のためであったりもするものなのです。

 ちなみに、内閣府の統計によると、現在の65歳未満の在宅身体障害者・精神障害者の障害原因は、病気が89.3万人、事故・けがが19.7万人、災害が0.49万人とされています。さらに、少し古いデータですが、国土交通省によると、交通事故による「重度後遺障害者数」は、毎年2,000人を超えているようです。
出所:内閣府「平成25年度障害者施策に関する基礎データ集」
国土交通省 2009年 資料

 数字からでも、自分や家族などが障害を負うリスクを感じていただけたと思います。しかし、「リスクがあるから備えよ」という単純な話ではありません。やはり、様々な見地から考えてみても、障害者のことを少しずつでも知っていくことは重要なのでないでしょうか。

 ただ、より重度で困難な障害を抱えながら必死に生きていらっしゃる方も数多くいらっしゃる中で、「お互いのことをちゃんと知る」ということだけでは、解決しない問題の方が多いかもしれません。しかしながら、障害者と健常者の関係について、出来ることから進めていくこと必要があり、それが回りまわって多くの方の前進のきっかけになると信じています。

 

障害者と健常者をつなげる“翻訳”

 

 では、「(隔たっていた)障害者と健常者がつながる。」というのはどういうことなのでし
ょうか。卑近かもしれませんが、「お互いのことをちゃんと知る」の例を挙げてみます。

 知り合いの障害雇用相談員が語ってくれた話になります。車いすで働く男性が、「職場の飲み会に一回も誘われない。」とその方に相談をし、その方を経由して職場の人間に聞いて返ってきた内容は、「誘ったら逆に迷惑かなって。だって、車いすの移動とか大変そうだし」だったようです。お互いにちょっとした行き違いを認めた後は、(その男性が参加する際は)車いすでも利用しやすい居酒屋で、飲み会が開かれることになったそうです。比較的に難易度の低い話だったかもしれませんが、障害者と健常者がお互いに「ちょっと言ってみれば良いのに」という話は、数多くあります。

 先ほど、「(対話の際は)障害者の方こそ先手を取って伝えるべき」と書きましたが、もちろん全員が伝えることが得意ではないでしょうし(これは、健常者でも同じことでしょう)、さらに、障害者も健常者も当然同じ人間ですが、障害者と健常者の双方の声を知る自分の経験上から考えると、お互いに持っている認識がところどころ違うように感じられ、良い部分も悪い部分も、お互いに偏見を持ったままのようにも感じられるのです。

 この課題に対して、まだまだ実力も経験も足りていない自分が、そのようなことを言うことに対して、多分の憚りを感じつつ、皆様にお伝えしたいことは、私の役割です。社会的に今後求められる私の役割の一つとして、両者の思いを汲み、両者が行動しやすくなるように言葉を伝えていく“翻訳”だと思っています。そして、社会には、“翻訳”を意識されているかはわかりませんが、障害者と健常者の架け橋となるべく、活躍をされている方は、たくさんいらっしゃいます。今後は、自分自身で感じたことに加えて、そのような方々の声も取り上げていきたいと考えています。