ジャーナリズムと勲章

M. Kimiwada

M. Kimiwada

君和田 正夫

 「勲章」について考えてみたいと思います。政治とジャーナリズムの距離感が問われる現在、その距離を測る物差しの一つが勲章と私は理解しているからです。

 私が新聞社に入社したのは、半世紀も前になります。テレビが今のように普及していない時代です。仕事を終えた後、先輩たちに連れられて行く飲み屋が実践的な研修の場でした。

 「相手がどんなに偉い人でも奢られたら奢り返せ」
 「記者会見では質問をせよ」(質問するな、という人もいました。大事なことはみんなの前で聞くな、ということです)
 「取材先との信頼関係を築け」
 「取材したら、記事と礼状を送れ」
 「新聞は必ず読め」

 などなどですが、その中で、実践的ではありませんでしたが、心に焼きついたことがあります。
 「新聞記者は勲章を貰ってはいけない」
という説教でした。記者のあるべき姿を偉そうに語ることは、先輩といえども面映ゆかったに違いありません。だから酒にまぶしてこの不文律というべきことを伝えたのでしょう。私たちの年代で記者だった人の多くは、大切に心の中にしまってきたのではないでしょうか。

 ところが、最近勲章事情は大きく変わってしまった、という声を聞きます。大新聞、大テレビ局のトップが生存者叙勲を受けるようになったことは、皆さん、ご存じのとおりです。私が知っているだけでも、読売新聞の渡邊恒雄氏、日本経済新聞の鶴田卓彦氏、サンケイ新聞の波佐間重彰氏、日本テレビの故氏家斎一郎氏(1926~2011)、フジテレビの日枝久氏らが、いずれも民間人としては最高と言っていい旭日大綬章を受賞しています。

 ある時、若い記者が「勲章なんかもらうな、と声を大にして言ってくださいよ」と私に言ってきました。「それは常識なんじゃないの」と答えましたが、そんな甘いものではなさそうです。

 偉いさんが勲章をもらうための運動が大変なようです。各省庁の推薦を受けて、内閣府で審査して内閣府案が決まり、この案が各省庁に内示されると、各大臣は正式の推薦をする、といった手続きになるのです。また勲章のランクが高いか低いか、といったことでも政治家や役人への働きかけが意味を持ってきます。

 受賞が決まると、記念パーティーの準備が始まります。当日は有力者においでいただかなければいけない、というので、第一線の記者が動員されることもあるようです。「そうすると、若い社員は、勲章というのはジャーナリストにとっての最高峰と考えるようになってきてしまう」と若い記者は言います。

 勲章が有難い時代になったわけです。その有難いものを、なぜもらってはいけないのでしょうか。

 「権力を監視する役割のジャーナリストが権力から勲章をもらってはいけない」

 多くの人が「ジャーナリズムと勲章」について論じていますが、答えは、ほぼこの一点に絞られています。全くその通りだと思います。権力の監視役とは国民の側に立つ、ということを意味します。ところが、勲章は国家または公共に功労のあった人に与えられるものです。自分が報道したことが国や公共の役に立った、と自覚するためには「公共」とは何か、さらには「国家」への功労とは何か、という大きな課題をクリアしなければなりません。「国民の側に立つ」ことと矛盾しないか、という自問自答が常に求められます。

 勲章論議の裏には「今のジャーナリズムは権力の監視役になっているだろうか」という根源的な疑問が横たわっています。第二次世界大戦を持ち出すまでもなく、ジャーナリズムにはいつの時代もこの疑問が付きまとっています。それどころか最近は国民を敵に回す状況が生まれるようになりました。分かりやすい例では「メディアスクラム」です。事件・事故の取材でメディアの取材が殺到し、加害者・被害者を丸裸にするような報道が問題になりました。今は各社の話し合いや協定で自主規制されるようになりましたが、このころからジャーナリズムは「弱者の敵」「強者の味方」という印象が強まってきたように思います。そう考えると、ジャーナリストが勲章を受けるのは、当然ではないか、という皮肉っぽい結論が導き出されます。

 話を戻しますが、「もらってはいけない」という説教は朝日新聞だけに受け継がれてきたわけではありません。

 1976年に日経新聞社長に就任した大軒順三氏(1911~1982)は日ごろから家族に「勲章をもらってはいけない」と話していたそうです。それだけではなく、戦後の昭和39年に叙勲が再開された時も、「そもそも政府が国民に序列を付けるのはけしからん」と再開自体に反対だったそうです。その後、財界人が勲章を欲しがるようになったことにも怒っていた、と遺族は言います。

 ところが大軒氏は亡くなってから死後叙勲が決まりました。遺族によると、会社から「勲章を受けて欲しい」と強く要請されたそうです。大軒社長の前任の円城寺次郎氏も勲章を受けていませんが、貰わないことが伝統になっては誰か困る人、迷惑する人がいると言うことでしょうか。

 死後叙勲と言えば、元日本銀行総裁の前川春雄氏(1911~1989)を思い出します。前川氏は叙勲を断り、その上、死後叙勲についてまで、辞退の遺志を家族に伝えました。前川氏の下で働いていた元日銀マンによると「人間に等級を付けることは私の性に合わない。断れば迷惑する人がいるのは分かっているけれど、これだけは譲れない」と生前、話していたそうです。大軒氏とよく似ています。

 私が疑っていることがあります。叙勲は昭和39年(1964年)に再開されました。明治以来続いた栄典制度は、戦後の昭和20年(1945年)に外国人への叙勲などを残して、生存者に対する叙位・叙勲を停止しました。再開にあたって叙勲の基準が決められました。国や地方自治体などの公務を対象にした部門とそれ以外の「各界各層」の部門です。この各界各層の基準は14の分野が挙げられていますが、その2番目に「新聞・報道の業務で公益に寄与した者」とあります。(「叙勲・受賞のてびき 勲章・褒章 事典」日本叙勲者検証協会)

 ここからが私の疑いです。「きっと新聞社が圧力をかけて基準に入れさせたに違いない」。その可能性があります。あるいは政府が「新聞社などを味方に入れておけ」と言った可能性もあります。受賞の是非、といった議論は青臭い、ということでしょうか、最初から勲章の対象だった、というのは、がっかりするところです。

 勲章を断った人たちは大軒氏、前川氏に限りません。元国鉄総裁の石田禮助氏、元東京電力社長の木川田一隆氏、元日本興業銀行の中山素平氏、元アサヒビールの樋口廣太郎氏、芸術・芸能関係も多いですが、杉村春子さんの文化勲章辞退は有名な話です。政治家も意外に多く、平民宰相と言われた原敬や浅沼稲次郎、近年では宮澤喜一元首相、各界挙げたらきりがありません。

 と言って、私は勲章を完全に否定するものではありません。勲章を望む人、拒否する人、勲章に関しては悲喜こもごも、様々な人間模様が描かれます。社会の面白さはそんな所にあると感じています。だから民間人の先輩が受賞した時は、お祝いの発起人になった事があります。しかしながら、ジャーナリスト、あるいは元ジャーナリストの場合は論外、と思っています。

 世の中に影響力のある人たちを見て、「三大悪」ということを聞いたことがあります。その第一が勲章を欲しがることです。その後に続くのが、日経の「私の履歴書」を書きたがること、そして死後は社葬を望むこと、だそうです。

 安倍政権は良く言えば硬軟両面作戦をとっているように思えます。例えば、憲法9条改正はさておいて「緊急事態条項」「環境権」「財政規律条項」など反対が少なそうに見える部分から手を付けよう、という戦略は、正面から問題を提起しない、正統な手続きを避ける、という意味で「軟」でしょう。財政規律一つとっても憲法に盛り込まなければ赤字財政からの脱却は難しい、という言い訳としか思えません。

 一方で、内なるジャーナリズムと外なる中国・韓国に対しては強気一本やりに見えます。「硬」です。

 ジャーナリズムと政治の距離感はいつの時代も難しいものです。第二次世界大戦ではジャーナリズムの戦争責任が問われました。戦後70年が経ち、メディア自身がその責任を忘れかけているように思えます。政治との間の壁もなし崩しに崩されていくのでしょうか。「安倍政権とジャーナリズムの覚悟」(原寿雄著・岩波ブックレット)と言う本が出ました。「覚悟」という言葉に衝撃を受けました。

 今月は天気予報がコンピューターとの戦い・競争であることを、予報士の根本美緒さんが「オープントーク」で書いています。「登竜門」では、杉野華子さんがペルーでのボランティア体験で感じた物質文明への疑問を書いています。さぁ、明日の日本社会はどんな天気になるのでしょう。

(参考)『政治と距離感を持て』(2016年4月)