パリ・バルセロナ・国旗

Kazu Shimura

Kazu Shimura

志村一隆

 バルセロナのアパートのテラスにはカタルーニャ国旗がぶら下がっている。結構な数が下がってる。パリの共和国広場の巨大なマリアンヌ像にも三色旗がたくさん下がっていた。

 この気軽だけどみんなの思いが詰まっている感じ。なかなか日本では見られない。パリとバルセロナを歩きながら、暇だったので、そもそもなんで日本人は日の丸をもっと気軽になぜ掲げないのだろうか疑問に思ってしまった。日教組の教育なのか。いや、それを打ち払うために、国旗掲揚を強制的にさせられるのもどうもシックリこない。カタルーニャ

 最近はサッカーの試合で頬に日の丸をペインティングしたりするけれど、でもその試合の夜に渋谷ハチ公前に繰り出す若者で国旗を持ち歩く人はいない。SEALDsのデモで掲げると、なんか違う意味になってしまいそうだし。日の丸はみんなのものというより、権力の象徴やある種のイデオロギーに紐付いて見えてしまう。国旗なんて元々そういうものなのかもしれないが、バルセロナの下町にたくさん掲げられている旗をみると普通のみんなが共有する思いが込められている気がする。

 旗を掲げることに躊躇いがちなのはなぜなのか。なんかモヤモヤするし、変な状態ではないか。日本は成り立っているようでいて成り立っていない国なのか。ただ、そんな国を一つにし、盛り上げ、そして誇らしげにしようとして、安部政権のように強権発動的になってしまうのもイヤだ。あれ以外に手法はないのだろうか。政治だけなく、日本的組織の多くが、多様なものの集合体でなく、同質性を強要してくるのと同じである。旗の下に自発的に集まるのとはちょっと違う。

三色旗

 「アメリカの鏡・日本」(ヘレン・ミアーズ、角川ONEテーマ21)には、ペリー来航以来、日本は米英の意向に影響され、そのビッグ・ブラザーの意向を受けた一部の権力・エリート層が支配してきたことが書かれている。この本を読むと、西欧主流の世界情勢では、結局のところ、富を求めるには、上からの指導によってしか達成できないように思えてくる。しかし、いまや富は人の心を一つにできる目標ではない。

 昨年9月FCバルサ(バルセロナに本拠地を置くスペインのプロサッカーリーグのチーム)のファンがスタジアムでカタルーニャ旗を掲げたのに対し、UEFA(欧州のサッカー協会)が罰金を命じた。しかし、バルサはあれは「政治的な行動でなく、人々の共通の想い(popular feeling)だ」と回答している。どちらでもあるんだろうが、要は政治と共通の想いが近い、つまり彼らにとって政治参加、意見表明はなんら特別なことではない。(前回の知人もそうである)そこがちょっと羨ましい。

 そんなカタランの姿をみると、日本人の状態が不自然に思えてくる。先進国で豊かなゆえに政治が身近でなくなっているわけでなく、なにか別な力が働いてるのではないかとも思えてくる。その原点はなんなのか。もしかしたら、この日の丸モヤモヤ問題は、同じモヤモヤの憲法9条や放送法を巡る問題などと根っこは同じではないか。

 ただ、いろいろな環境を知りこれからの日本を考えると、日の丸なんぞ気にせずに、語学を磨いて米中のパワーゲームのなかでうまく立ち泳ぐのがいいのではないかなんて結論にもなってしまうのだが。。

(参考)

  1. 「天皇とアメリカ」(テッサ・モーリス・スズキ、吉見俊哉、集英社新書)の一節に、戦時中、日の丸に寄せ書きをして兵士に渡していたが、星条旗にそんなことはしない。日本では御真影(天皇陛下の写真)に寄せ書きをしたら大変だ、というなことが書かれている。ちなみに、パリ共和国広場の三色旗にはなにか書かれているものもあった。
  2. 最古の日の丸は、山梨県甲州市の雲峰寺にある1056年後冷泉天皇より源頼義に下賜されたものらしい。