中田 直樹
はじまり
暑い真夏の丑三つ時に大阪は天王寺の逓信病院で生まれ僕の人生が始まった。逆子だった。僕はずっと自分が精神病院で生まれたのだと思っていた。アイスコーヒーをアイスコーシーと言う母の滑舌と、逓信という単語が僕の語彙にはなかったので勝手にそれを精神と置き換えて記憶していた。物心がつくまでなぜ自分が精神病院で生まれたのか誰にも聞けず時々不安になり、でもほとんどの日常はそんなことを忘れて育った。
生まれて間もなく吹田市の千里丘にあるひかり荘と言う名のアパートに引っ越した。千里丘という住所が好きだった。そして僕が産まれて三年後に妹が産まれた。ひどく嫉妬した。同時に急速に自我が芽生えた。ある日、しとしと雨の降る午後に布団の中で眠る妹の横で洗濯物を畳んでいる母の姿を、僕は箪笥を背もたれにして見ていた。妹がいなくなればいいと思った。初めて時間が戻ればいいと願った瞬間だった。
妹が走り回れる年になると僕は兄貴風を吹かせた。足元に蟻の行列があって妹が泣き出せば、蟻を踏み潰してやった。そして蟻の巣に爆竹を仕掛け、火を付けた。大きな破裂音が鳴り止むと蟻の巣からは煙が上がり妹に言った。もう大丈夫だ。穴の中の大半の蟻は死に絶えた。同じ頃、蟻は触角を取ってしまうと方向音痴になることを発見した。
ひかり荘には気の強い姉を怖がるくせに年下をいじめるタカシ君がいて、僕も何度か喧嘩の最中に地面に顔を押し付けられ口の中に泥を押し込まれた。
そのアパートにはタカシ君の他に同い年のカッちゃんと年下のタエちゃんがいた。カッちゃんはどこか聡明で一緒にいると少しだけ気後れがした。でもやることは僕と一緒で裸になってマジックで色を塗り、カッちゃんはウルトラマンになり僕は赤マジックでウルトラセブンになった。僕らは知らずして立派なボディペインティングのアーティストだった。
カッちゃんの母親は絵が上手で、二段ベッドの柱にはウルトラマンや仮面ライダーの絵がたくさん貼ってあった。いつもそれを羨ましいと思っていた。
脱皮
やがて僕らは秘密を持つようになった。ひかり荘から離れた場所にあった鉄条網が張り巡らされ雑草に囲まれた木造平屋の廃墟に集まるようになった。小さな体には鉄条網など役にも立たず、いとも簡単に潜り抜けることができた。ただセイタカアワダチソウが僕らの背丈ほどあったのとヒッツキ虫と呼んでいた野草の種子が服に着くのが厄介だったが、ささやかな障害が逆に背徳感を昂らせた。
そのうちに僕らにキマリが出来た。そこに集まる時は宝物を持ち寄ることと、その廃墟に入る時には全部服を脱ぐというキマリだった。廃墟の中で一糸纏わず裸になった子供達は特別な空間を手に入れて母胎に還った。そして大人たちから完全に姿をくらました。
僕らは一切の隠し事をせず、その時々で一番大切にしているものを持ち寄って見せ合った。そして、親に告げることもしなかった。タエちゃんは心臓の手術をしたことがあって胸には縦に大きな縫い跡があったが、みんなで良くなりますようにとお祈りをした。タカシくんはそこにはいなかった。信用できなかったからだ。
そんなことをしているうちに千里丘陵で万博が始まり、廃墟は取り壊された。ひかり荘から万博会場までは自転車で行ける距離だったし父の実家はさらに近所で万博の間は宿貸しをしていた。僕は五歳だった。
ある日突如として目の前に太陽の塔が現れた。テレビの中のヒーローよりも実物の太陽の塔は圧倒的だった。幼稚園で好きな絵を描きなさいと先生に言われれば誰もが太陽の塔を描いた。幼稚園児が丸ごと岡本太郎に呑まれてしまっていた。それは親や先生が言う正しいとか正しくないとか、そう言うことから遠く離れた未知の場所で、それまでに感じたこともない大きなエネルギーを放っていた。
時代はサイケデリックだった。太陽の塔の中の生命の樹も夜のスイス館も家のこたつ布団もカーテンも陽の光も風までも色付いていた。僕の中に色彩が芽生えた。太陽の塔のおかげで目に映る景色が大きく変わっていった。
そんな頃、幼稚園のベランダで仲良しだったアッコちゃんとしゃがんで話している時に突然彼女がキスをした。初恋だった。
やがて、毎日はそうそう天真爛漫でもなくなっていった。日常という暗雲が時々少年の頭上を覆うようになる。
帰宅が遅く休みも少ない父から原稿用紙を渡されて毎日必ず日記を書くよう言われた。寝る前にその原稿用紙を父の机に乗せておくと、朝には赤ペンで誤字脱字の校閲と感想が書かれた原稿用紙が僕の机に乗っていた。それは日曜日にしか顔を合わすことのない父との往復書簡となった。書くことがないと言えば、書くことがないということを書けと言われた。連日、書くことがありませんでした。と書いたらさすがに叱られた。
課せられた文字数は二百字詰め原稿用紙一枚以上だった。文字数を稼ぐために、僕は不必要に句読点の多い文章を書いたが、やがて思い付いたのは詩を書くことだった。それは名案だった。今度は行数が稼げたからだ。
子供の悪知恵と人は言うが、大抵の大人たちは愚かにも子供たちを子供扱いしているので、それが悪知恵とも気付かない。子供だって大人と同様に防衛本能を備えている。それに、子供は何をすれば大人が喜ぶか、よく知っている。
やがて僕の日記の中から父が朝日新聞に投稿した。小さな目という子供の詩を掲載するコーナーがあって結局三回、僕の詩が朝刊に掲載された。初回は嬉しくて小学校でももてはやされたが三回も載ってしまうと、なんだ、送れば載るのかと喜びもすっかり薄れてしまった。
それでも新聞デビューは僕の転機になった。書き出して気持ちを整理する癖も着いた。しかし、いいことばかりではなかった。大好きだった先輩に二十枚のラブレターを書いてあっさりと振られた。情熱は言葉数ではないと思い知らされた。
言葉に弄ばれる自分を父にも見透かされ、新しく知った単語を無理やり文章に組み込むと、簡単な文章を書くほど難しいのだと嗜められた。父との書簡はいつしか終わった。
予言
僕は一浪して大学に行き、あまり授業には出ずにバイトと西早稲田にあったモズというジャズ喫茶に入り浸るか新宿で酒を飲んだ。モズのママ、菅野裕子さんにはよく叱られた。僕の言葉は人に期待を持たせ、そして結果的には人を傷付けるのだと。おまけにお人好しだから出来ない話も安請け合いしてしまう。僕の欠点はどんどんモズのママによって洗い出されてしまった。
言葉は人を温める毛布にも包丁にもなる。僕はきっと自分で自分の言葉をきちんとコントロールできていなかったのだと思う。
そして、あなたは将来、酒と女で必ず失敗すると予言されて打ちのめされた。当時の僕にとって彼女はこの世で最も説得力のある大人だった。そしてその後、予言通り僕は多くの失敗を重ねた。
レコードを回しながら学生の面倒を見るのがママの仕事だった。私、学生が好きなのよね、とよく言っていた。僕も薄暗いカウンターで時には丸ごと心を吐露し、ある時は無言でウイスキーを飲んだ。ただ、モズに居ることが好きだった。ある日ママは言った、あなたのような学生はずっと忘れないわよ、と。嬉しかった。それまでの厳しい言葉が愛の鞭だと知った。
愛情の深い人だった。学園紛争が華やかだった頃には、血を流しながら階段を登って店に来た学生にいつも酒を振る舞ったと言う話と、在学中からラジオに出始めたタモリに卒業証書を書いてあげた話をよくしていた。常連の間でもママの年齢は全く不詳だった。
僕はたいがいの飲み代を出世払いにしてもらい、就職した年にかなりの額を支払った。金額を聞いてこの人は悪魔かと思ったがツケを払って店を出ると、やっとちゃんと卒業したのだという実感が込み上げた。
それからほんの数年後にママは酔って台所で転んで亡くなった。見事にあっけない最後だった。それを後から聞いた時は信じられずに湧き出す泉のように涙が止まらなかった。
やがて僕は結婚して一人の男の子を授かり、名前を付ける時に裕子さんから一字を頂いた。しかし家庭はうまくいかず子供が三歳の時に別れた。離婚という作業はまさに戦争そのものだった。日本酒が好きな僕の酒量は毎日一升を超えていた。僕はモズのママの予言を思い出していた。
離婚に際しては多額の金が必要だったので新人賞狙いで出版社に小説を送ったりもした。当然ながら箸にも棒にもかからず、それどころか僕が物語のモデルにしていた女性がとある神田の本屋に平積みになっていた。村上龍が、またその女性をモチーフに小説を書き、表紙に彼女の写真を使っていたのだった。
僕の小説がもしも世に出ることがあれば彼女の横顔を表紙にしようと思っていた。儚い夢は丸ごと大波にさらわれて僕はペンを置いた。
平積みされた本の前で僕は愕然とし、自分が身の丈を遥かに超えた夢を見ていたことにやっと気付いたのだった。仕方なく大魚を追うのを諦め、勤めていた会社には内緒で江古田駅前にあったラーメン屋で深夜働いた。茹で麺機はサウナのように熱かったしスープの寸胴鍋は恐ろしく重かったので、いとも簡単に十キロ痩せた。
処女航海
息子が今年の夏に僕の久保田の万寿を持って大阪から僕の店を訪ねて来てくれた。十八年ぶりの再会だった。今という時間はどんな形であっても過去の時間を追いやっていく。いずれその日がと思っていたら、その日は突如としてやって来た。
その日、二十歳の息子と八時間酒を飲んだ。自分の学生時代を見直しながら息子に指針を渡せたかどうか自信はないが、息子は僕の一言一句を漏らさず拾い取ろうとしていた。居酒屋のカウンターで日本酒を飲みながら、息子は僕の言葉をつぶやくように反芻した。希望の大学に進めなかったと言うが、有り物のフレームを選択するだけが夢を叶える手段じゃない、常に選択肢は無数にあると説いた。
手元にないものは生み出せばいい。放課後に追試を受けるかのようにいちいち果たせなかった過去に拘って出来るまで前に進めないのでは時間が何百年あっても足りない。打たせて取る野球だって意図したフォアボールだってあるしエラーもある。試合が終わって勝てばいいのだ。終わりよければすべてよし。そう話すと息子は驚いた顔をした。
二年前に二十六年勤めた新聞社を五十歳で退社した。ずっと広告の仕事に携わっていた。よく思い切ったよね、と今でもよく言われるが、自分の中では全くの必然だった。退社の年を決めたのは辞める五年前だった。定年まで流されずに自分の意思でしかるべきタイミングにハンドルを切らなければと、ずっと考えていた。人生は一度しかない、そんな有り体の言葉が常に頭の中にあったが、そんな常套句ほど自分で噛み砕くチャンスにはなかなか遭遇しないものだ。一度しかない人生を描き直すためには人の船ではなく自分の舟が必要だった。
周囲には会社人生の終盤に差し掛かって亡くなる人も病気になる人も少なくなかった。そして何より自分の父親が会社を引退し自分で事業を始めて一年も経たない間に他界した。このまま会社に居続けると言う選択肢は父親の死をもって薄れて行った。残された時間を今の上塗りと考えるのではなく、ゼロから考えてみた。大きなメディアの中にいる自分が、個として自身がメディアになると言う結論に至った。
大学に入った年に大学近くの‘あんねて’と言う名の自家焙煎店でアルバイトをしてからずっと、付かず離れず焙煎士という仕事への憧れが続いていた。終の仕事にするならこれだと思っていた。今でもその店が僕のコーヒーの原点になっている。
会社を辞めると決めて退社するまで、五年掛けて焙煎の勉強をした。バッハコーヒーの田口護氏から焙煎のみならずカフェの経営について、そして人について学んだ。至極当たり前のことを実践されてきた師の言葉はひとつひとつが腑に落ちた。
南千住の旧山谷地区で四十数年店を構える師は、場所に拘るなと繰り返し、駅前の一等地では意味がない、技術を磨き知恵を絞ってあなたの店を一等地にしなさいと言った。幾度となく焙煎したコーヒーの味を一緒に確認して頂き、修正を繰り返し最後にポンと背中を押して頂いた。あなたには資質があると。
退社を公言してから始まった社内外の方々との送別の夜は退社後まで三ヶ月に渡って続き、延べ二百人を超える方々と盃を交わした。心から、ありがたいと思った。
かくして僕の舟は海に出た。沖に出ると、店は生きたメディアだった。面白い人に会いに人は寄ってくるし、楽しい場所に人は集まる。そして人が人を呼び、面白いお客さんがいればまたその人に会いに人がやって来る。そこには今の不確かなマスではなく、個の日常という面白い情報が人の数だけある。面白いと感じるのは、自分にはないドラマを個々人が持っているからだ。
ふと、まだ小さかった頃に聞いた大切な言葉を見つける。百歳の人生を全うした祖母は「自分らしく生きなさい」と僕に向かって繰り返した。そして祖父は「口と足さえあれば歩いて日本一周でも出来る」と言った。僕はそれを真に受けて十一歳の時には千葉から大阪を自転車で走った。そして、この二つの言葉はその後のドラマを産む原点になる。そして、こんな不肖な生き様でも妹が生まれた時以来、時間を戻したいと思ったことはない。
プールがどれくらいの深さなのか、知る由はいくつかある。たいていプールサイドには水深が何メートルか記してあるので数字を見れば水深はわかる。しかし、自分で息を止めて水に潜りプールの底に手を突いて深さを感じるという手段もある。触らなければわからないことは、沢山ある。それを自分の言葉で伝えていく、すると物語を孕んだひとりのメディアが誕生する。
欲しいものには自分の手で触れてこそ、ドラマチックに生きられる。