高須 武男
2004年12月24日…ナムコ社の「会長室」にて。
バンダイ社長(当時)の私とナムコの中村雅哉会長(当時)が応接セットを挟んでにこやかに対峙しています。
私…中村会長!お誕生日おめでとうございます。 この「バースデーケーキ」の意味お分かり頂けますよね……。 是非、一緒に同じステージに乗りませんか?
会長…そろそろ、例の話し合いを再開しましょうか。 年明けには、当社側も「プロジェクトチーム」を立ち上げますよ!
私…是非、よろしくお願いします。
その日から遡ること、8ヶ月前…。
バンダイの「浅草新本社ビル落成記念パーティー」の会場に中村会長の姿がありました。挨拶をする私を、最前列にお立ちになって食い入る様に見ていらっしゃいました。その日は、玄関先までお見送りするだけで何の具体的な話しはありませんでした。
2日後にパーティー出席のお礼のため、東京都大田区にあるナムコ本社の会長室を訪問しました。その席で、私が常日頃考えていた「将来の経営」に関する持論を披露させて頂きました。当時、バンダイの売上高は 2700 億円 (営業利益 220億円)、一方ナムコの売上高は 1800億円 (利益 130億円) でしたが、世界のエンターテインメント企業と互角に闘う為にはお互いに規模が小さい。そこで、是非「ナムコ」と強いタッグを組んでより大きな成長を目指したい、と。
私の強い思いが伝わったのでしょうか。中村会長は「バンダイ創業者の山科直治さんとは親しいので、バンダイには好感を持っている。是非、何か出来るものなら一緒にやりたいね…」と即答をして下さいました。
それから、約1ヶ月後に中村会長から一本の電話がありました。
「ナムコは今、創業50周年の記念事業中でバンダイとの事業連携の話し合いは一時中断したい。一段落したらこちらから連絡を入れます」
これは、よくある「体のいい、お断りか…」と半分以上諦めの心境になりました。私自身はナムコの50周年パーティーにはお招き頂きましたが、その後はナムコ側からは「梨の礫」でした。
2004年も、もう12月になって…何の連絡もなく少々イライラしていました。当然、中村会長と2人だけの話しですから誰にも相談出来ません。そんな時に、私の秘書が「12月24日は、中村さんのお誕生日ですが……」と言うではありませんか。これは会長室再訪問の「大義名分!」とばかり、早速、誕生日当日の10時にアポを取りナムコ本社を再訪問しました。
これが冒頭の会長室でのやりとりです。
2005年のお正月も明け、両社の経営統合の話し合いは急ピッチで進みました。そんな中、私が中村会長に「統合」の話しを進める上でまず確認したことは、
1,両社は対等の立場で経営統合する。その為には純粋持株会社方式で、傘下に「バンダイ」と「ナムコ」がそれぞれのブラン ドで事業展開する形をとる。
2,両社の親会社となる持株会社の代表取締役は一名とする。「ツートップ」は避けたい。
3,コーポレートガバナンス強化の為に役員総数の1/3を社外取締役とする。
4, 役員数は基本的には両社対等にする。
でした。
これは、経営統合直前の両社の業績は比較的順調で、どちらかを救済するための経営統合ではないことを社内外に示したかったからでもあります。バンダイの強みである多くの「キャラクター」を玩具・アパレル・カード・玩具菓子などへ横展開する力と、ナムコの持つゲームソフト・業務用ゲーム機の「開発テクノロジー」とゲームセンターを実際に運営し、ゲームセンターの「ロケーション」。これらを融合して中長期的にグローバル市場で勝ち抜ける「世界一のエンターテインメントグループ」を作りたいという強い「願い・思い」がありました。
当時、おもちゃ産業は「少子化」もあり将来への急成長に疑問がありました。一方携帯電話の機能が急激に拡大して「ゲーム専用機」(ソニーのプレイステーション等)で遊ばれていたゲームが携帯電話で遊べる環境が整いつつありました。
ソーシャルネットワークの発展で通信機能付きのゲームが主流になりつつありました。バンダイにとって、その事業拡大の為、ナムコのゲーム開発技術が是非欲しかったのです。今、バンダイナムコグループの収益の柱は、バンダイのキャラクターを使って開発された「スマホのゲーム」です。経営統合時の予見がまさに大当たりの感がします。
エンターテインメント企業がまさに「メデイア企業」へ変貌を遂げつつあるのです。
2005年の1月から極秘裏に両社の特命担当者が何回も一堂に会して経営統合への話し合いを続け、4月の後半には相当部分が固まって来ました。ところが、日経新聞に両社が「経営統合」を進めていることを察知されゴールデンウイークには「特ダネ」としてリリースしたいと言うではありませんか。
そこで急遽 5月2日(月) に記者会見をして「両社の経営統合」を発表することにしました。
前日の日曜日にホテルに集まり、翌日の記者会見での「Q&A」の準備に大わらわでした。その席で、純粋持株会社の代表取締役社長に私が就任することを決めて頂きました。私が当初から「2頭政治」は避けるべきと主張し続けて来た事を中村会長が理解して下さったのです。中村さんには「最高顧問」にご就任頂きました。
そして、何と 5月4日の早朝、私の母が亡くなりました。2日のTVの記者会見を観て安心したのでしょうか……。これも忘れられない一大事でした。
2005年9月に新会社「バンダイナムコホールデイングス」がスタートしました。傘下に「バンダイ」「ナムコ」と、2社のゲーム部門を分社独立させた「バンダイナムコゲームス」の事業会社3社がぶら下がる形です。
残念ながら統合直後は統合作業に力を取られ、そして合併会社が故に、社員の気持ちが一つになるのに少し時間がかかり3〜4年間は業績が低迷しました。その責任を取って私は、2009年4月に代表取締役会長に、2011年6月には相談役に退きました。更に、2012年6月には相談役も退任して現経営陣に経営を全てお任せしました。今は過去最高の業績、過去最高の株価を実現してくれています。
私は世界一のエンターテインメント企業、に成長してもらいたいと願い、退任するにあたり下記のことを現経営陣にお願いしました。
1 エンターテインメント企業であるが故にコーポレートガバナンスが甘いと見られがちなので、 社外取締役1/3体制をしっかり守り、「ガバナンス」の厳しさと「エンターテインメン ト」の楽しさのギャップが話題にされる様な会社を目指して欲しい。
2 エンターテインメント企業が故に、「ダイバーシテイー」は重要。女性の活用・外国人の
活用は数字目標を持って積極的にお願いしたい。
3 アメリカ、ヨーロッパの責任者は現地採用者を育成して将来の社長に……。
4 バンダイとナムコ間の役員レベルを含む人材交流は活発に意識的に実行して欲しい。
5 アジア展開の成功は会社の将来を決することになる。 各社の「トップ人材」を現地に常駐させるくらいの決意で注力して欲しい。
私は50歳で、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)からバンダイに転職し、たくさんの素晴らしい経営者にお会いしましたが、一番印象的な出会いは、やはり「中村雅哉ナムコ会長」でした。おかげで、今「バンダイナムコ」はエンターテインメントを軸にメディア企業へむけて、変貌しつつあります。