「実感なき最長景気」の行方 〜破局へ歩むアベノミクス〜

K.Okonogi

小此木 潔(上智大学教授)

 近所のスーパーで、人だかりができていた。「焼き芋一個97円」の焼き上がり時刻。すぐそばの野菜売り場に並ぶ1本157円のサツマイモに比べると小ぶりだが、人びとは「安い」「うまい」と買い求める。この店でも別のスーパーでも月2回の「5%オフ」販売が人気で、両方の店と隣接する商店街は火曜日の「100円券サービス」がにぎわう。景気拡大が「戦後最長」になったという経済統計との落差を物語るような、生活防衛の光景が巷にあふれている。

 
5年連続で減った家計消費
 

 安倍首相は2月10日の自民党大会の演説で、就業者数の増加や景気拡大をアベノミクスの成果として強調した。しかし、生活実感にそぐわない首相の認識を石破茂・元自民党幹事長は「実感が乖離を起こしている」と批判した。2月8日に総務省が発表した家計の消費支出も2018年が平均月額24万6399円で前年比1.0%減となり、物価変動の影響を除いた実質で5年連続の減少を示したのだから、石破氏のほうが現実と全体像を冷静に見ているのだろう。

 こうした状況で、人びとが消費増税をすんなり受け入れるとは思えない。朝日新聞の昨年末の世論調査では今年10月に消費税率を10%に引き上げることに関して反対が59%で、賛成の33%を大きく上回った。かりに予定通りに実施した場合は、買い控えのうねりが日本経済を冷え込ませるかもしれない。いや、その前に安倍政権が、またしても増税を先送りするかもしれない。

 増税は社会保障の支えや充実に不可欠だと筆者は考えているが、増税が逆進性の強い消費税中心だと所得の不平等を広げてしまうとの指摘がフランスの経済学者トマ・ピケティ教授や米国のジョセフ・スティグリッツ教授からすでに出ていた。逆進性というのは高所得者よりも低所得者の方が税の負担率が高くなることだ。ピケティ教授は富裕層への増税を、またスティグリッツ教授は炭素税を優先すべきだといい、彼らの主張には理があると思う。

 ピケティ教授は2015年1月31日に東京の日本記者クラブで会見した際、会場のスクリーンにグラフを映しながら日本の所得の不平等は1990年代以降、顕著になっていると指摘し、米国ほどではないが欧州よりも不平等の拡大が進んでいるとして、資産課税の強化など再分配に力を入れるよう提案した。

 グラフには、所得上位10%の人が全体の所得の何%を占めているかが示されており、それによれば日本では1990年には35%以下だったが、2000年にはその比率が40%近くまで急上昇し、富裕層への所得の集中と全体の不平等化が進んで「一億総中流」が過去の幻影になったことが示されていた。

 日本では所得の階層別区分や不平等を示す統計が整っていないが、厚労省の2014年の所得再分配調査では、不平等の程度を示すジニ係数が過去最大値を示し、不平等化のうねりが確認された。それでも、社会保障と税による再分配後の修正されたジニ係数をみれば従来の値に比べてやや小さく、不平等はむしろ横ばいか縮小していることを物語るような数字が出ていた。その後の調査結果が公表されていないため、ジニ係数の最近の動向は不明だが、就業者に占める非正規社員の比率が増えたり、高齢世帯が増加したりしていることが所得の不平等を拡大していると懸念される。

 
自明の理であり続けた消費税増税
 

 しかし、増税の使途も含めて国内ではそうしたことはほとんど議論されてこなかった。政治家や官僚にとって、さらにメディアにとっても消費増税の必要は自明の理であり続けた。だから景気と民意の動向をにらみつつ消費税の税率をアップする時期と上げ幅、それに加えて増税時の景気腰折れ対策をどうするか、といった事柄が政治の焦点となり、財政を重視する財務官僚と景気を重視する政治家との攻防・調整が続いてきたわけだ。

 ところが増税実施が近づくにつれて、そのハードルが大方の予想以上に高くなっているという現実が目の前に横たわっている。これを国民のせいにすることは許されない。

 安倍政権は円高是正や失業率改善には成果を挙げたが、「経済の好循環」を実現して増税の条件を整えることに失敗している。それが今の事態を招いたということに向き合うべきではないか。

 アベノミクスと呼ばれる政策のもと、なりふり構わず金融緩和と財政出動を続け、年金で株を買い支えてまでも輸出企業や株主の利益を膨らませたが、家計は実質賃金の減少に苦しんできた。つまり、富裕層優遇で多くの生活者に背を向けてきた政策が、消費増税を難度の高いものにしたのである。

 
実質賃金の目減りで苦境の家計
 

 首相は総雇用者所得が増えたことを強調しているが、他の先進国には例がない実質賃金の目減りが長期にわたって続いてきたために、家計の苦境や消費の不振が続いているのであって、増税への反発も政治不信とともにそこに根があると見なくてはならない。実質賃金の減少については、厚生労働省が公表している統計ではこの数年間の推移しかわからないが、規模5人以上の事業所を対象とした2015年の現金給与総額の平均を100とした実質賃金指数は、2012年の104.5から2018年の100.8へ、3.7ポイント下がっている。

 長期的推移を見やすい一人平均の月額現金給与は、ピークだった1997年の37万1670円から2018年の32万3553円へ、4万6117円(12.4%)も減っている。長期デフレの後に物価が緩やかに上昇したこの期間に消費者物価指数は99.2から101.7へと変化しているのだが、実質賃金低下が続いて生活を圧迫してきたことは明らかだ。

 本来なら、賃上げや社会保障の充実による消費拡大で内需主導の景気回復と経済成長を実現すべきであったのに、それができなかったということである。そうした現状を糊塗する統計の偽装や操作は官僚を動かしさえすれば可能であっても、生活実感までは操作できないことを首相はわかっているのか。

 賃金の目減りと消費不振は成長率の底上げ失敗にもつながっている。首相は1月末の通常国会冒頭、施政方針演説で「この6年でGDP(国内総生産)を10%以上増やした」と自慢した。しかし、それは年平均1.2%という鈍い増加ペースであり、これまでの景気拡張で最低の数字にすぎない。「実感なき景気回復」と呼ばれた小泉政権下の平均成長率1.6%よりもだいぶ低いのだから、いまの景気が戦後最長だとしても、「まるで実感なき最長景気」とでも形容するしかない。

 金融緩和と財政頼みの手法には、経済界からは「技術革新ではなく為替の円安誘導に頼った結果が、この現実を招いたのではないか」といった声すら上がっている。しかも、GDP の総額も集計方法の変更による増額がなされており、研究開発を新たに算入する方式にしたための増加分が30兆円もあるのだから、これも人為的な操作や偽装の一種かという印象はぬぐえない。

 
日銀や年金積立金による買い支え
 

 バブル期を連想させる株価や国債相場も、日本銀行や年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の大規模な買い支えによるものであり、市場そのものをゆがめていることを考えれば、浮かれてはいられない。いわば大掛かりな相場操縦まがいの政策によるバブルの要素があり、これが崩壊したら国民の年金も日銀も巨額の損失を抱え込むのは避けられない。国債を大量保有する金融機関の経営も直撃され甚大な損失を被るだろう。

 日銀の試算によれば、東京五輪の経済効果は累計30兆円というから、その効果が失われたあとの反動による不況は必至だろう。新聞社による企業経営者アンケートにもそうした不安がすでに表面化し、消費増税を機に景気拡大が終わるとみる経営者が多い。それが株式や国債の暴落を契機に東京発の世界金融危機や大不況の引き金となる危険すらある。

 他方では、米中対立による中国経済の減速が米国の金融市場の崩壊につながるかもしれない。すでにトランプ大統領の「米国第一」主義でG 20協調は失われ、各国による財政出動も金融緩和もほとんど弾切れ状態である。2008年のリーマンショックについて、当時の米連邦準備制度理事会議長ベン・バーナンキ氏は、のちに書いた回顧録『危機と決断』で、あれは「金融恐慌だった」と述べているが、あの時にはなんとか回避できた世界大恐慌の再来は、もはや防ぐ手立てが見当たらないのではないか。すなわち、来るべき金融危機がグローバルな金融恐慌になる危険があり、そうなれば世界経済がメルトダウンし大量失業が世界を覆いかねない。

  
議論されない金融政策の「出口」
 

 安倍政権は、脱デフレを旗印として国民のお金を湯水のように使ってきた。もはやデフレではなくなったと言いつつも、脱デフレ宣言を封印したまま、ひたすら「ばらまき」に精を出した結果、日銀マネーで国債や株などを買いまくる異様なまでの超金融緩和をいつの時点で縮小するのかという金融政策の「出口」に関する議論・説明すらもあいまいにし続けている。そんな姿を見るにつけ、アベノミクスの真の目的は実のところ脱デフレではなく、政権維持と改憲発議に必要な議席確保のための人気取りであって、本質はトランプ政権ばりのポピュリスト政策ではないか、と思えてくる。

 いずれにせよ「アベノミクスは道半ば」「やがて津々浦々に…」とおまじないのように繰り返された言葉を辛抱強く信じる支持者もいて政権と政策は今日まで長期化してきた。そのあげく、まるで実感なき最長景気という旅路のその果てに国民を待ち受けているものが、実質賃金上昇による脱デフレという望ましいゴールではなく、恐ろしい破局であるとしたら…

 悪夢どころか悔やんでも悔やみきれない地獄のような展開に陥ってしまう前に、国会は政府による統計偽装を追及するのを皮切りに、アベノミクスの失敗と金融緩和で拡大したリスク、今後採るべき実質賃金引上げ・所得再分配強化の政策や危機回避策について、きちんと議論しなくてはならない。そうした議論の活性化のために、メディア・ジャーナリズムは広く政策論争の場と判断材料を国民に提供するという重い責任を負っている。