地域文化の継承―みだりに「昔」をくずさぬ小鹿田焼

N.Suzuki

鈴木直人

 私たちの日々の暮らしを考えてみたときに、みな同じものを求め金太郎飴のような生活になってしまったと残念に思うことがあります。効率性を追求した生活用品に囲まれ、革新技術を駆使した空間で生活をすることが「豊かな生活」だと思う価値観が、知らず知らずのうちに浸透してしまったせいでしょうか。この効率性を追求する傾向は地域づくりにおいても顕著にみられるようになりました。その結果、地域が本当に守らなくてはならない固有の地域文化の継承が崩壊の危機にあるのです。この危機感は日本だけでなく伝統文化の継承に深い関心を持つ多くの国々で共有されるものです。このような中で意固地なまでに「昔」にこだわっている大分県の小鹿田焼(おんたやき)を紹介したいと思います。

 今、少し希望が持てるのは、日本国内でこの効率化を求める流れに逆らい古民家生活や手工芸品を毎日使う事に安らぎを覚える人が増えてきたことです。最近、老舗のデパートが民芸品コーナーを常設したのはこの動向を敏感に感じ取ったせいかもしれません。海外でもイスラム諸国の国際機関が「手工芸品の伝承」と題するシンポジュームを開催し、地域文化の継承の在り方を頻繁に議論しています。私も2002年から数回パネリストとして参加しました(注1)。高度な経済成長と技術革新を成し遂げた日本が伝統的な手工芸品の継承に成功した事例の紹介は多くの参加者の興味を引きました。そんな折、小鹿田焼の記録映画「極める‐匠の世界」シリーズの一つ「みだりに昔をくずさぬように」(協力:文化庁、1987年大分県日田市皿山にて収録)に出会ったのです。とても気になるタイトルでした。この産地の陶器づくりの生活から何か大切なものを学べるのではないかと思うようになりました。

 

柳宋悦もバーナード・リーチも

 

 小鹿田焼の歴史は江戸時代1700年代半ばにさかのぼります。近隣の小石原村の陶工10人が福岡県と大分県の県境にある日田皿山に移住して生活雑器をつくったのが始まりです。開窯以来300年間、窯元の数とその陶器づくりの暮らしに大きな変化はありません。民芸運動を主宰した柳宗悦が戦前・戦後にわたり何度も訪問し「自然で、逞しい民芸品」と絶賛した事でも知られています。また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチが1954年に3週間ほど日田皿山に滞在した事も知名度を高めました。1995年にはその文化的価値が認められ国の重要無形文化財に指定されたのです。

 制作工程は近くの採土場から搬入された原土を唐臼で「粉砕」することから始まります。水槽で粉砕土を攪拌し上澄みをこす「水簸(すいひ)」、土掛け窯や天日干しで乾燥させる「水抜き」、長石(ちょうせき)、木灰(きばい)、藁灰(わらばい)、焼成銅を使った「釉薬(ゆうやく)づくり」、「施釉(せゆう)」、足蹴り轆轤(ろくろ)を使った「成形」、「文様付け」、天日による「乾燥」、登り窯への「窯入れ」、昼夜を通して中の温度を見極めながら行う「窯焼き」、窯が冷えるのを一日ほど待って行う「窯出し」で終わります。「飛び鉋(とびかんな)」、「打ちかけ」などの文様付けは小鹿田焼の特徴の一つと言われています。

 

「匠の技」は個人でなく地域で共有

 
 「極める-匠の世界」の記録映画は窯元家族の一人一人が係わる工程を丁寧に映し出していきます。それはあたかも「匠の技」は一人の窯元が持つものではなく、家族全員、地域の人々が共有するものだと伝えようとしているかのようです。最後は窯の前で当時の組合長が「約300年の伝統、これを守り続けた10何代の先祖がおられますね・・・若いものもそれに責任を感じて非常にまじめにやってくれるし・・・非常にありがたいことだと思っている次第です。」と語りながら終わります。

 記録映画の収録から25年が過ぎた2012年。登場した若き窯元見習いは窯元となり、奥さんは施釉と釉薬づくり、窯出しを手伝っていた小学生の息子さんは窯元見習いとして窯元と並んで轆轤(ろくろ)を回し、その若奥さんは土づくりの担当。一世代後の家族みんながそれぞれの役割をそのまま引き継いだ生活が営まれているのを実際目にしたのです(注2)。記録映画のナレーションは「小鹿田焼が開窯以来大きく変化しないのはその技と掟のせいである」と伝えたのですが、「掟」とは穏やかでありません。それは一体何を意味するのでしょうか。

 

窯出しの瞬間まで続く不安

 

 小鹿田焼はすべて手作りで、陶土づくりと釉薬づくりは女性が、成形は窯元と窯元見習いがそれぞれ分業して行います。窯焼きはガスや電気を使いません。昔ながらの登り窯で背板(杉の廃材を細く2mほどに切り乾燥させたもの)を燃やすのです。各々の袋(ふくろ=窯の個別の室)の温度は位置、その時の気温、湿気、天候で微妙に変化します。その温度管理は難しく、それぞれの袋が適温に保たれないと、中の器が変形したり割れたりしますし、期待通りの色もでません。器の大きさや厚さによっても配置場所が変わってきます。熟練した技を身につけても出来上がり具合を予測することは難しく何一つとして同じものはできないのです。「満足のいくものは全体の半分ほど」という窯元もいます。窯出しの瞬間まで続く不安。それだからこそ使い勝手のいいものが出来上がった時の喜びもひとしおです。この楽しみがさらに技を磨き伝統をつなぐ原動力になっているのです。戦後の民芸ブームを受けて市場が求める量を供給できないとの理由で機械の導入が議論されたことがありました。しかし手仕事を守った今、日田皿山の人々は機械化をしていたら失ったかもしれないものがどれほど大きかったかを強く感じているのではないでしょうか。

 

家族と仲間意識が支える10戸のつながり

 

 女性が分担する陶土づくり、釉薬づくりの仕事は熟練を要し、重労働です。その役割の重要性は家族のだれもが認めるところです。また、共同窯の窯焼きのときには「ぬくめ」(窯の一番下に位置し最初に火を入れるところ)を担当する窯元の奥さんが他の窯元家族も集まる昼食の準備をすることになっています。このような女性の仕事は地域の窯元やその家族達とのつながりを守ることに大いに貢献しているのです。

 10戸の窯元達は強い仲間意識を持っています。機械を使わないから販売量は自ずと決まり、販売に係わる競争心や対抗心は湧いてこないのです。さらに「跡を継ぐ宿命」という意識の共有も仲間意識を強めているのかもしれません。多くの窯元見習い達は当初、仕事を継いでいく事に抵抗感があったといいます。しかし「代々跡取りは一人」という同じ運命のもとで仕事を始めたもの同士、共に切磋琢磨し連帯感を強めていったような気がします。私生活での交流もこれを後押ししています。窯元達は休日には集落の弓道場で一緒に弓を引き、若い窯元見習い達は釣りに行っているようです。
仲間意識を強めるもう一つの要因は共同作業です。日田皿山には5つの個人窯と1つの共同窯があります。共同窯には8つの袋(ふくろ)があり年に5回ほど窯焼きをするのですが、この共同窯を使う5つの窯元たちは協力と譲り合いがなくては仕事になりません。たとえば、焼く器の量や袋の位置などで不公平にならないように年初めに集まり調整をします。窯元たちは頻繁に行き来し、ともに腕を磨く機会が多いのです。組合の活動では欠くことのできない存在なのです。

水簸

施釉

足けり轆轤で成形

 

窯元個人のインターネット販売を中止

 

 この日田皿山で窯元たちの一部が個人を強く意識し行動を起こした事件がありました。
1973年、第2回日本陶芸展に二人の陶工が応募し、一人が外務大臣賞を受賞したのです。しかし個人名で出展したことに対し年長の窯元から好ましくないとの意見が出ました。二人は第5回まで出展を続けたのですが、他の窯元が同調することはありませんでした。納得して出展を止めた二人もその後は他の窯元とともに昔と変わらぬ陶器づくりを続けています。この事件以来、個人陶芸作家を作らないことが窯元の間で強く意識されたようです。有名になりたいと思うのはごく自然なことです。記録映画の中でも若い窯元見習いのそのような声を拾っています。しかし、25年後には、その若者たちも窯元になり「家族全員が職人」だと思い、個人作家を目指している気配は感じ取れませんでした。それは取り決めに従ったのではなく、日々の生活が育んだ自然な意識の表れではないでしょうか。

 また、数年前の話ですが、ある窯元が独自にインターネット販売を始めた時のこと。他の窯元から「バイヤーがどのように売るかは係わり知らぬところだが、自分の窯元名を出して個人販売をすべきはない」との意見が出されました。議論の結果、窯元個人による小鹿田焼のインターネット販売は中止となったのです。

 

芸術作品でなく生活雑器を

 

 現在、陶芸分野では数名の重要無形文化財保持者(人間国宝)が志野、備前、常滑、小石原で制作活動をしています。個人の技ではなく地域の陶芸文化の価値が認められ保持団体としての指定を受けているは小鹿田焼だけです。人間国宝の作品は作家が亡くなった後も後世に残るのですが保持団体の指定はその団体・地域の文化的価値が喪失した時に消滅するのです。小鹿田焼に関してはその心配はないでしょう。芸術品は革新・変革の力になると言われますが、小鹿田焼の窯元達はそのような芸術品を創ろうなどとは思わないのです。日本陶芸展への出展の事件がそれを明らかにしました。窯元達は地域文化を支える生活雑器だけをつくり続ける事を自分たちで選択し、それを守っていこうとの気持ちを強くしたのです。

 小鹿田焼の文化的価値は、「変わらない原料や工法」だけではありません。「変わらない地域の陶器づくりの生活」そのものです。その価値の継承を支えているものは家族みんなが手仕事の楽しさを忘れない事、そして革新を求める「我」を家族や仲間意識が柔らかく包み込む暮らし方です。強制された「掟」があるわけではありません。記録映画は「小鹿田に陶芸を教えに来たと言われたバーナード・リーチはむしろ陶工さんたちから学ぼうとした」と伝えます。しかし、彼が学ぼうとしたものは陶芸技術ではなく、やはりこの生活雑器づくりに係わる先人の知恵だったのかもしれません。

 これをグローバルスタンダードに逆行しているとみる人もいるでしょう。販売量が限定される「手作り」を強いるのは自由競争の市場原理に反する、「跡を継ぐ宿命」は職業選択の自由を奪う、「個人作家の否定」は個人の芸術的才能の目を摘む、などと批判されるかもしれません。しかし、このような小鹿田焼の伝統を守っている生活の術と知恵を別の視点から見てみたらどうでしょう。異なった地域、文化圏には多様な価値観がある筈です。他の地域や国々の「手工芸品にもとづく地域づくり」に、大いに参考になるでしょう。さらに、多くの人が家族や仲間の絆を大切にし、小鹿田焼のような自然で逞しい生活雑器に安らぎを覚える暮らしを追求してくれるのではないかと、期待してしまうのです。

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(注1)イスラム諸国会議機構(OIC)の下部機関であるイスラム歴史美術文化研究所(IRCICA本部イスタンブール)が開催した国際シンポジューム:2002年イスファファン(イラン)、2006年リヤド(サウジアラビア)2008年チュニス(チュニジア)、2010年ドーハ(カタール)、20011年マスカット(オマーン)でパネリストとして日本の伝統工芸品産地における研究事例を発表。

(注2)千葉大学デザイン科学専攻デザイン文化計画研究室(筆者と栗澤惟氏を中心とした博士・修士学生チーム)が2012年7月から2014年3月にかけて数回現地調査を実施した。この間、すべての窯元さんとのインタビューと日田皿山の大半の住民の方々から質問票への回答を得ることができた。調査結果は修士論文に反映されたが本稿は論文とは別の視点からの考察を試みた。当時の組合理事長黒木富雄氏のご協力とご支援に心より感謝いたします。
鈴木直人
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