フリーのジャーナリストに集中する「自己責任論議」

M. Kimiwada

君和田 正夫 

 シリアで人質になっていた安田純平さんが、10月23日、トルコで解放されました。大変うれしいニュースです。同時に、毎度のことのように「自己責任論議」が起きるのはつらいことです。ジャーナリズムの世界に身を置いてきた人間とすれば、自己責任論議を続ける限り、ジャーナリズムの存在は危うい、と思わざるを得ません。

 
大手メディアの限界に挑む
 

 ジャーナリズムは大手メディア産業を含めて全て「自己責任」であるはずです。それなのに「自己責任論」という批判は多くの場合、フリーの記者、カメラマン向けられます。今回の安田さんもそうですが、2004年に起きた「イラク人質事件」の今井紀明さんも「劣化ウラン弾」の取材をして、将来ジャーナリストを目指していました。
 同じ2004年にイラク戦争を取材中に殺害された橋田信介氏は、戦場カメラマンとしてベトナムやカンボジアで活躍した人です。2015年には後藤健二氏がシリアのイスラム過激派により殺されました。いずれもフリーランサーと呼ばれる、組織に所属しない人たちです。
 このことは二つの問題を提起しています。

 一つはジャーナリズムというのは、大組織によって支えられているのか、フリーの人たちを含めた「総合力」で成り立っているのか、という問題です。私は総合力だと思っています。双方が役割を分担していると考えることもできるでしょう。いや、大手メディアの限界をフリーの人たちが突破しようとしている、と考えたほうが、現実に会っていると思います。大手メディアの限界が赤裸々になっているからです。
 政府が「ここは危険地域だから入らないでくれ」と言った時に、企業として、この要請に逆らうことは難しいでしょう。組織の記者も会社の方針を無視することは難しい。どうしても行きたいという記者は独立する、フリーになるということになります。

 
「自己責任」の内外格差
 

 もう一つ浮き上がる問題点は、ジャーナリズムの役割を国民や政治家がどのように理解しているか、です。英国から帰国したばかりの日本人ジャーナリスト、小林恭子さんに、英国での反応を聞いてみました。「英雄扱いですよ」「よくやったという感じです」という返事が返って来ました。紛争地で取材する、リスクを取って取材するジャーナリストに対する敬意が英国にはある、と言います。
 小林さんによると、英国には1,995年に設置されたローリー・ペック・トラストという慈善団体あるそうです。フリーランスで報道に携わる人々(ジャーナリスト、カメラマン、ビデオジャーナリストなど)とその家族を支援することを目的としています。このトラストは優秀な報道に賞を出しているのですが、後藤さんは受賞候補の常連だった、と言います。
 「独立メディア塾」の2015年3月号で「この国は自己責任を葬ったのか」と、人質に対する「自己責任論」を批判しました。2004年のイラク人質事件について、当時の日本の政治家が批判的だったのに対して、米国の国務長官だったコリン・パウエル氏は「日本人は誇りに思うべきだ」と行動を高く評価したことも伝えました。

どうも海外の反応と日本の反応の落差は大きいようです。

 
現場へ行かなければ「自己責任」もない
 

 紛争地域で殺戮が行われているのではないか、戦火の生活は悲惨ではないのか、を伝え、最終的に日本に何ができるか、を問いかけるのがジャーナリズムです。現地入りしないメディアはその役割を果たしていない、従って「自己責任」も問われない、ということになります。国民も政治家もメディアにそのような役割を期待していないどころか「余計なことをするな」と考えている、それが日本と外国の反応の違いになって表れるのでしょう。
 今井さんの「自己責任」(講談社)に、次のようなことが書かれています。
 「私にとって帰国した日本は『地獄』だったということだ。イラクの次に幽閉された場所は、日本」
 「『自己責任』の大合唱の中で」という文章では「こうした自己責任論が、私には『死んで帰ってきてくれればよかったのに』そう冷たく言われているかのように聞こえた」

 日本に「自己責任」はあるのでしょうか。政府や世論に逆らわず、自己責任を返上したとしか思えない人たちが、「自己責任」を理由に他人を批判することは、悪い冗談を越えています。