日系移民150年の歴史―あの戦争をアメリカで経験した私たち(上)

M.Hasegawa

北米報知記者インターン
長谷川 美波

 150年という節目を迎えた米国日系移民の歴史。そこには、第二次世界大戦という負の歴史も横たわっている。当時の様子はどうだったのか。シアトル日系人の歴史を振り返りながら、体験者たちの声に耳を傾けてみよう。

 

明治元年から始まった日系移民

 

 今年で150周年となる日系移民の歴史は、1868年の明治元年から始まる。新しい時代の幕開けと共に、鉄道の開通、西洋風の建築や洋服が流行するなど、国を挙げて近代化が進められた。しかし急激な社会の変化と日清・日露戦争後の余剰労働力の拡大によって、地方の貧しい漁農村では一獲千金を夢見て出稼ぎのために海を渡る若者が続出した。

 ちょうどアメリカでは、ハワイのプランテーション農園や、西海岸で進められていた鉄道・炭鉱事業などの労働力不足を解決するために、外国人労働者の需要が膨れ上がっていた。そんな背景もあり、政府の許可なく、旅券を受け取らずに出国した者も多かった。その結果、渡航先で1日10時間の労働に対して月4ドルのみしか支払われないなど、奴隷のような扱いを受けた例も発生。日本政府がアメリカへの移民を自主規制した過去もある。

 1896年、日本郵船による横浜―シアトル運航が始まると、シアトルの日系移民も急速に増大した。言語も文化も違う異国の地に降り立った日系1世たちは、農園から農園へと渡り歩き、アメリカ人の何倍も働いた。しかし、週末も働き続ける日本人の勤勉さは、時にアメリカ社会に脅威として映り、排日感情が生まれる要因ともなった。

===========体験者の声(1)===========

イデグチ・ファミリー・ヒストリー

 シャーロン・イデグチさん(20歳)はシアトル大学に通う。曾祖父に当たるミヨシ・イデグチさんは熊本県出身で、1914年、15歳でハワイへ渡った。

 両親を亡くして身寄りはなく、新しい生活を求めて渡米する決断に迷いはなかった。ハワイではパイナップルのプランテーション農園で働いたが、厳しい労働環境だった。水が整備されていなかったため、バケツを持って何度も水を運んだ。数年後、同郷のツヤさんと結婚。十分なお金を稼いだ後は日本に帰るつもりだった。しかし、帰るだけの余裕がなかった。「せめて妻だけでも」と、ミヨシさんは働いたお金で妻を何回か里帰りさせた。ミヨシさん自身は日本を離れた後、1度もハワイの島を出ることはなかった。

 戦時中、ミヨシさんの息子であるヒサシさんは、第二次世界大戦末期からハワイでアメリカ軍に入隊した。ヒサシさんはリチャードと名乗り、アメリカ軍への忠誠を示すために日本語を使うことを止める。子どもたちに日本語を教えることもなかった。
ミヨシさん一家は白人家族が経営するタケヤマ・パイナップル農園で住み込みで働いた。ミヨシさんの孫たちは、学校が休みとなる毎週金曜日にはアメリカ政府が管理する「ビクトリー・ガーデン」に行き、兵士のために豆やジャガイモなどの野菜を収穫した。

(写真)ハワイにあるプランテーション農園の入口にそびえ立つ2本の大樹。100年以上前にミヨシ・イデグチさんによって植えられて以来、イデグチ・ファミリーを結び付け、歴史を語り継いできた。その壮大さは日系移民が始まってからの時の経過と、家族の歴史の長さを物語る。 木の前の女性はシャーロンさんの叔母、ナオミさんとその子共。

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「写真花嫁」がやって来る

 

 1908年から1924年は「呼び寄せ移民時代」と呼ばれる。先に移民した独身青年たちが、故郷から結婚相手を呼び寄せたためだ。

 排日感情の高まりから、明治政府は出稼ぎのための移民の自主規制に乗り出した。そのため、合法的に移民するには家族となる必要があった。多くの日本人女性が、写真によるお見合いと文通のみで1度も相手に会うことなく結婚を決意し、海を渡った。彼女たちは「写真花嫁」(Picture Brides)と呼ばれ、その数は6万人にも上るとされている。

 アメリカでの定住を望む男性と、日本での貧しい生活を抜け出したかった女性の利害が一致したとも言える写真結婚制度だったが、アメリカ社会では奇妙な文化として批判の対象となった。また、日系社会の人口が急激に増えたことによって排日感情はさらに高まる。この写真結婚制度は、アメリカが1924年にフィリピン人を除くアジア系移民を全面禁止するきっかけとなった。

 

※次回更新は8月8日を予定しております※