『起承転結』

H.Sekiguchi

H.Sekiguchi

関口 宏

 ある晩、何気なくテレビのチャンネルを回しておりますと、丁度始まるBSの洋画番組に出っ食わし、「たまには映画もいいか・・・・・」と見てみる事にしました。

 それは10年ほど前のアメリカ映画で、お定まりのミステリー&アクションものとすぐに見当がつきましたが、10分、20分、30分と経つうちに、何だか訳が分からなくなり、イライラし出してチャンネルを変えてしまいました。
「最後まで見てりゃ分かる」と思いながらも、我慢が効かぬほど魅力もなかったのかもしれませんが、実は大分前から、このことが気になっていたのです。

 

 訳の分からぬ謎めいた話しから始まり、その謎を放りっぱなしにしておいて次なる訳の分からぬ話を展開、更に訳の分からぬ話を続ける種まきを何度か繰り返すうちに、ある共通項を示したあたりから謎解きを開始、そして一気にエンディングになだれ込むというパターン。
ハリウッドあたりの誰かが思いついた手法なのでしょうが、それが大当たりしたのか、やたらこの手の映画が増えました。

 

 しかし、暗い映画館に閉じ込められた状態なら、一生懸命ストーリーについて行こうと集中することが出来るのですが、テレビではそうは行きません。
どこかで救急車のサイレンが聞こえたり、窓外で雨が降って来たのに気を取られたりしていると、またそれを掻き消すかのように、マフラーを外したバイク音が響いたりで、視聴者は完全に集中出来ていないのです。
だからこの手のものはテレビには向いていないと常々思っていたのですが今回、またそれが立証された訳で、途中放棄したものの、無駄にした3、40分に腹が立ちました。

 

 しかもこのパターンは最近、益々手が込んで来て、その手法ばかりが大袈裟になって、中身はお粗末なものも増えてきたように思われます。
そしてそれは映画ばかりでなく、小説やテレビにまで影響を与えているようで気になっていました。

 

 「起承転結」・・・・・物事や文章の順序・組み立て。
学校でそう習った時の例え話は『桃太郎』でした。

桃太郎 国立国会図書館ウェブページより

桃太郎
国立国会図書館ウェブページより

 

「昔々お爺さんとお婆さんがいました」・・・・・『起』
「お爺さんは山で芝刈り、お婆さんは川で洗濯をしていました」・・・・・『承』
「その川に大きな桃が流れてきて、中から桃太郎が生まれ」・・・・・『転』
「その桃太郎が鬼退治をしました。めでたし、めでたし」・・・・・『結』
こんな分かりやすい説明でしたが、実に説得力がありました。

 

 つまり、この理論からすると、今流行りの洋画の組み立ては、『転・転・転・転・転・・・・承・起・結』ということになるのでしょうか。
もちろん、それがすべて悪いとは申しません。
しっかりしたテーマがあり、その組み立ての方が観客に伝わりやすいと考えられるなら、「起・承・転・結」の順に拘る必要はないのでしょう。
昔から小説でも映画でもこうした変形作はありました。
しかし、最近はそれがひど過ぎやしないかとの心配なのです。

 

 とくに恥ずかしながら我が業界。すべてとは申しませんが、いつ始まっていつ終わったのかを隠してしまうかのような手法が氾濫し始めています。
始まりの挨拶は抜きで、いきなり中身。終わりの「さようなら」もなく気がつけばもう次の番組の中身に入っているような場面をよく見かけるようになりました。

 

 「頭の挨拶・説明はカッタルイ」「終わり感が視聴者に伝われば、チャンネルを変えられてしまう」・・・・・といった視聴率恐怖症に囚われたテレビ屋による仕業ではあるのですが、では中身はといえば、面白いと思われる場面(テレビ屋が勝手にそう思い込んでいるだけなのかもしれないのに・・・・・)の、「これでもか」と言わんばかりの羅列、羅列、羅列・・・・・・
つまり「転・転・転・転・転・・・・・・・・」。そして「起・承・結」排除。
うーーーん、これでは何を伝えたい番組だったのか分からなくなってしまわないでしょうか。

 

 「起・承・転・結」は先人の智恵。

人に物事を伝える基本なのだと思うのですが・・・・・・・

 

 「めでたい鬼退治をした桃太郎は桃から生まれ、それを見つけたお婆さんは川で洗濯をし、お爺さんは山で芝刈りをしていた昔々のお話です」
これじゃー、やっぱりつまんないよねー。

テレビ屋  関口 宏