関根 健次
(映画配給会社ユナイテッドピープル代表)
4月に家族4人で1年間の世界一周の旅に出発し、アジア、中東、ヨーロッパ、中米を巡る旅をしています。詳しくはこちらのブログで書きました
中米コスタリカには長く暮らす予定で、7月の到着を目指してゆっくりと西へ、西へと移動しています。
アジアで訪れた最後の国マレーシアからイスラエル・パレスチナを目指しました。イスラエル・パレスチナは、私がユナイテッドピープルを創業する原点となった場所のため、子ども達をどうしても連れて行きたかったのです。
最初にイスラエル・パレスチナを訪問したのは1999年のことでした。大学を卒業したばかりで旅好きの私は、まだ見たことのない世界を旅しようと思いました。トルコのイスタンブールから日本まで陸路で目指すユーラシア大陸横断の旅を企画しました。数ヶ月間かかる一人旅ですので、旅人や現地の人とのたくさんの出会いがありました。偶然の出会いの連続から、イスラエルに行くことになり、また、パレスチナ自治区のガザ地区を訪問することになりました。
聖地エルサレムから乗り合いタクシーでわずか小1時間。当時は情勢が安定しており、日本人であれば、パスポートを見せたら誰でもガザ地区に入ることが出来ました。今では封鎖されているため、イスラエル政府から特別な許可を得なければ入ることが出来ません。当時のガザ地区はオスロ合意の後の和平ムードで満ち溢れていて、「意外と平和だな」というのが最初の印象でした。ガザ国際空港を訪問した時には、私を管制塔にまで入れてくれて、誇らしげに「あれがエジプトから飛んできた飛行機だ」などと、これからのガザの明るい未来への期待を伝えるように言ったのでした。今ではその国際空港は粉々になってしまっています。
表面的には何の問題もなく、平和に見えたガザ地区で、私に衝撃的な出会いが待ち受けていました。一緒にサッカーをした少年少女たちに、「紛争地で生まれ育った子どもはどんな夢を描いているのだろうか?」と純粋に彼らの夢を知りたくなり、夢を聞いてみました。1人の少年から、「将来は爆弾の開発者になって、敵を殺したい」というショッキングな答えが返ってきたのです。彼の夢を聞いて、金槌で頭を叩かれたように意識が飛ぶほど茫然としました。理由を尋ねると、彼が4歳の時に目の前で叔母さんがイスラエルの兵士に銃殺されたのだと言います。幼い時に大きな悲しみを抱え、やがてはその悲しみが憎しみに変わってしまったのです。「憎しみの連鎖」を行おうとしている彼を何とか思いとどませ、連鎖を断ち切るために説得を試みましたが、失敗でした。当時彼は13歳でしたので、今も生きていれば30歳。彼の夢がその後変わったことを願います。
こんなガザ地区での衝撃的な体験から、世界中の子ども達が子どもらしい夢を描ける世界をつくりたいと思うようになり、人と人をつないで世界の課題解決をしていくことを事業ミッションに掲げるユナイテッドピープルを2002年に創業しました。ネット募金サイトや署名サイトの運営を経て、現在は映画の力を知り、社会的課題がテーマのドキュメンタリー映画の配給を行っています。
あれから17年。今度は妻、12歳の娘、そして9歳の息子を私の原点の地へと連れてきました。さすがにガザ地区には入ることが出来ませんので、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地エルサレムと、パレスチナ西岸自治区内に位置するキリスト生誕の地、ベツレヘムを訪れました。
エルサレムでは子ども達をオスマン帝国時代に築かれた城壁の中に案内し、狭い城壁内でユダヤ教、キリスト教、イスラム教徒がそれぞれの居住区に分かれて共存している様子を見せました。また、キリストが埋葬されたという聖墳墓教会へ行き、2千年以上前にユダヤ人の王、ヘロデ大王が拡張したエルサレム神殿で唯一残った壁「嘆きの壁」で今も祈る人々を見ました。その先の丘の上には、イスラム教の創始者ムハマンドが死後、昇天した地とされる岩のドームがあります。現代では1948年にイスラエルが建国され、これまでに4度の中東戦争が行われ、土地を追われたパレスチナ人達の悲劇が続いています。この現代まで続く、複雑に入り組んだ歴史を子ども達に分かりやすく伝えることは簡単ではありませんが、多くの「なぜ?」という疑問符を持ち帰って欲しいものです。
ベツレヘムではキリスト生誕の地を訪問しましたが、子ども達に見せたかった場所はイスラエルが建設している分離壁です。全て完成すれば全長700Kmにも及びます。この壁はテロリストの侵入を防ぐためという建前で建造されていますが、実際は国連がさだめた国境であるグリーンラインから大きくパレスチナ自治区側に食い込み、土地を奪うように建造されています。ベルリンの壁が崩壊した後も、このように人々を分断する壁が存在してしまっているのです。このような壁が世界のどこにも必要のなくなる世界をつくりたいと願っています。
イスラエル・パレスチナを後にして向かったのはトルコのイスタンブールです。ちょうど17年前の訪問ルートと逆ルートでした。トルコはシリアと陸続きのため、きっとシリア難民と出会うだろうと思っていたら、やはり出会いました。難民親子とわずかな触れ合いがありました。シリアの混乱が始まってから5年。何が出来るのか自問自答が続いています。
無言で2人が現れた。
シリアからの難民親子だった。
何も言葉を発せず、ただ横に彼らは来た。
こちらも何も考えることもなく、
財布から全てのコインを差し出した。
2人は無言で去って行った。
歩いていると、まだ2人が居た。
今度はこちらから話しかけた。
「シリアのどこから?ダマスカス?アレッポ?」
ほぼ英語が通じない2人。
でも都市名を聴いたら答えが帰って来た。
知らない地名だった。
「Bomb, night time !」
父親が片言の英語でこう言った。
夜に空爆を受け、シリアから逃げてきたのだろう。
彼女や父親の表情を見ていたら、やり切れない
気持ちになった。ここでは、こちらから立ち去った。
もう一度、彼女たちと分かれ、
もやもやとした気持ちで歩き始めた。
2人はどこで寝ているんだろう?食べるものは?
ちょっとして、もう一度、彼女たちを探すことにした。
するとちょうど丘を下ってくる2人を見つけた。
今度はお札を渡した。これが根本的な問題解決には
ならないと知りながらも、こうせずにはいられなかった。
「Sleep…」
父親は、これで寝ることが出来ると言いたかったのだろうか。
それから、アラビア語で祝福のような言葉を投げかけてくれた。
こちらも知ってる限りのアラビア語で応じた。彼らに祝福あれ。
ほどなくして2人は静かに去って行った。