思いのカタチ

S. Tsuruoka

鶴岡 信二

プロローグ 再会

 その頃、ぼくはフリーになりたてで、毎日あちこちうろつき、夜はどこかの酒場で呑んでいた。ある夜、なじみの居酒屋にいたとき、たまたま入ってきた客との再会がはじまりだった。その男は、ぼくが昔マネージャーをやっていたバンドのリーダー「タコシ」だった。

 偶然の再会から遡ること21年。1986年は、レコードからCDに変わる過渡期だった。縁あって小さな音楽事務所で働いていたぼくは、ちょうどレコードを発売したばかりの、タコシ率いるバンド「AM PM」のマネージャーをやることとなり、レコ発ライブツアーを敢行。メンバーを引き連れて北海道を旅していた。

 北海道はいい街だった。呑み代が安い。人がみなフレンドリーな感じがする。ある晩関係者たちと呑んでいたとき、国内の音楽活動は、北海道ではじめるアーティストが多いことを知った。ブルーハーツは北海道から火がついたんだ、と、ブルーハーツ初の北海道ツアーを担当したというイベンターのエライ人は言っていた。

 事務所では、「AMPM」をメジャーデビューさせようと企んでおり、その試金石として、北海道ツアーでいい評価を得たいと思っていた。

 ところが、ツアーから帰ってきて半年ほど経った頃、社長からちょっと経営的にやばくなってきたと伝えられた。タコシたちとの日々は、どんでん返しの連続で楽しかったが、結局、ぼくは思い切って退社することにした。それから、タコシとも、バンドメンバーとも会っていなかった。消息もまったく知らなかった。それが25年ぶりにいきなりの再会。びっくりしたが、人の運命ってどこかで繋がっていたりするんだなあ、と妙に納得したりしていた。

 その後、AM PMは代理店を通じてある企業のCM曲に選ばれる寸前までいったそうだが、夢破れ、事務所は倒産。バンドも解散し、タコシは音楽仲間のツテをたどって転々としながら生活していたそうだ。

出逢い

 タコシは、学生時代の先輩の縁で、ライブハウスの店長をしており、店は商店街のテナントビルの2階にあった。

 週末、店に行ってみた。タコシから、「お客さんを交えてのライブがあるんだ」と聞いていた。店内はほぼ満席だった。ステージには、中年の冴えない二人組がいた。ギターデュオ。演奏が始まると、なんの楽曲かわからないが、ふたりとも上手い。一曲目が終わり、曲紹介を聞くとオリジナルのようだ。すぐ次の曲がはじまる。いい曲だ。ふたりはオリジナル4曲を演奏してステージを降りた。客も知ってる人が多いのか拍手喝采だった。その後は、スーツを着てる人、OLっぽい人など、音楽好きなお客のステージが続いた。

 一通りの出演者が終わって、タコシがぼくの前に座った。ビールを注いでくれながら、「こんな感じでやってるんだ」と少し笑った。そして、近くにいたお客たちに、「この人、オレがレコードデビューした時のマネージャー、この間偶然再会したの。よろしくね」と紹介してくれた。立って、かるく自己紹介したとき、あのふたりとも目が合った。

自分から生まれてくるものを

 店に顔を出すようになって3ヶ月が過ぎたころ、店のオーナーがやめることになり、タコシがあとを引き継いだ。店名は「ガクヤ」になった。

 ある日、たまたまあのギターデュオの一人、ギョウギさんと二人で話す機会があった。なんのきっかけだったか、「はじめから気になっていたんですが」と店の壁に掛けてあるレコードの話をしたところ、即座に「あーオレのだよ」とギョウギさんは答えた。「えっ、誰のレコードなんですか?」問い返すと、「だからオレのだって」と言って、すっと立ってレコードを壁から下ろし持ってきた。目の前に出されたレコードには「クローズ ユア アイズ ・ギョウギマサオ」と印刷されていた。

 ギョウギさんは、中学のころビートルズに出会い、音楽に目覚めた。すぐにバンドを組み、徐々にオリジナルの作曲もはじめ、19歳のとき、当時(1974)放送されていた、ニッポン放送「ライオンフォークビレッジ」という番組のオーディションに出場し、作曲賞をもらう。「音楽の道に進みたい、きっと誰かが見つけてくれる」という思いは大きく膨らんだ。が、その後誰からも連絡はなく、望みは萎んでいった。

 だが、これには裏があった。ギョウギさんの実家は食堂を営んでおり、彼もそこを手伝っていた。仕事が終わると、音楽に没頭する毎日の彼に、ギョウギさんのおかあさんは、いつもやきもきしていたらしい。「音楽なんて、つまらないことに夢中になって」と、息子の行く末を心配していたのだろう。「フォークビレッジ」で賞をもらったあと、番組パーソナリティーのかまやつひろしさんや、レコード会社からも電話があったが、おかあさんはそれを隠し、すべて伝えなかった。

 ギョウギさんは、仕事に励んだ。店は繁盛していった。だが、音楽への情熱が消えてしまったわけではなかった。ギョウギさんはひとり、ずっと書きためていたオリジナル楽曲のすべてのパートを自分で演奏し、録音しはじめていた。自分から生まれてくるものをなんとかカタチにして残したい。思いはそれだけだった。こつこつと、2年近くかけて作業は進んだ。女性のボーカルが欲しいと思えば、以前バンドで一緒だった女性にコンタクトをとり、結婚し遠くで暮らしている彼女のもとまで行って録音した。つくりたい、という気持ちが、少しずつカタチになっていく嬉しさが原動力だった。こうして、27歳で自主制作アルバム「クローズ ユア アイズ」完成。自分の中で、この人に、と思う人たちに配った。

 その1枚が店に飾ってあったのだ。

 「クローズ ユア アイズ」は、時代の空気を感じられ、瑞々しいとさえ思う、ギョウギさんの作曲家としての才能をしっかりカタチにしたものだった。

運命のいたずら

 その後、CD制作やライブ、その他イベントなどに協力しながら、ぼくはいつしか「ガクヤ」に関わるミュージャンたちのマネージャー的な存在になっていた。そんなある日のことだった。ステージではギョウギさんが歌っていた。

 隣にいた常連のラジオディレクターがぼくに言った。「この曲、いいですよねー。実はちょっと前から思ってたんですが、うちの番組のテーマ曲にどうかなあと。こんどの改編時期で、内容が少し変わるんです。で、テーマ曲も新しくしよう、ってことになって」話はトントン拍子に進んで行った。ディレクターが気に入ったのは「虹」という曲で、ライブでも人気のある曲だった。ぼくはギョウギさんとデュオでステージに立っていたAさんの言葉を思い出していた。

 「ギョウギの曲は好きじゃないのもあるけど、虹を含む数曲は、あいつがどん底に落ち込んでいた時に生まれた曲なんだ。あれはいいよ」

 「虹」

〜お天気雨は すぐに消えて 陽射しだけが残る
街の景色や 空気たちを お掃除して消えた
木の葉に残る水玉の精 宝石みたいに微笑む
ささやかな庭の緑から 小さな虹がのぼった 〜

 ライブでは客も一緒に合唱することがたくさんあった。ぼくは、これはいけるぞ、と手応えを感じていた。ラジオで聴いた人もきっと気に入ってくれる。なにかしら動き出しそうな予感を胸に、粛々と作業を進めていった。

 そんなとき、携帯が鳴った。ギョウギさんの妹からだった。昨夜、ギョウギさんが酒酔い運転で捕まったというのだ。「えっ、なんで?」前の晩は、みんなで打ち上げをしていた。ギョウギさんはその席にスクーターで来ていたというのだ。それで検問にあたり、警察官と少しもめたらしい。

 血の気が引いた。というより、血の気が引くとはこのようなことをいうのか、と自分で感じていた。その日は一日、どうしようと考えているうちに過ぎた。

 翌日は朝から仕事であちこち動き、夜になってなじみの居酒屋に入った。ビールを瓶で注文しコップに注いだ時だった。携帯が鳴った。ラジオディレクターからだった。

 ギョウギさんの件は知られていた。「申し訳ないですが、あの話はなかったことにしてください」と言いにくそうに断られた。二言三言の弁解のあと、「わかりました」と応えた。何故ギョウギさんの飲酒運転の件を知っていたのだろう、と思った。ぼくから連絡しなければと、明日にはこちらから連絡しなければいけないなあ、と思っていただけに、若干不意をつかれた感があった。

 結局、番組テーマ曲の話がなくなってしまったので、「ガクヤ」を販売元として準備を進めていたCD制作の企画もなくなった。翌日会ったギョウギさんは無言で頷いた。

 それから数ヶ月経ったある夜、携帯が鳴ると、またギョウギさんの妹からだった。こんどは、ギョウギさんがゴミの不法投棄で留置されてしまったというのだ。罰金が科せられ、それを払えないので、労役場での労働で罰金を相殺するという。ため息が出た。ひとつ歯車が狂うとここまで落とされてしまうのか。

 ギョウギさんが出所したのは、3ヶ月ほどした頃だった。ギョウギさんは、ぼくのそばに来て、「これ」と封筒を手渡した。労務留置中に曲を書いたというのだ。それはサインペンで書かれたノートだった。ざっと見ても30曲ちかくある。「この人、ほんとうに音楽しかないのだなあ」とあらためて思った。

再出発

 3ヶ月の間に変わったことといえば、「ガクヤ」が店仕舞いしたことだった。タコシも頑張っていたが、こればかりはどうしようもなかったのだろう。舞台を失ったギョウギさんが留置中の新曲を含むライブの場にしたのは「チクリカン」という小さなバーだった。その夜、10人入ればいっぱいという店内にぎっちり15人ほどいただろうか。

 「小さな心」

〜 黄昏に 思いを馳せて いつかも見た あの夕陽
久しぶりだね 小さな心 抱きしめるように見つめてる
教えられた言葉を 自分勝手に使ってた
何も見ていなかったから
君も同じだったんだね
ぼくだけにしかわからない ちょっぴりだけど 本当の愛
小さな心と 健気な思いの
できることのすべて 〜

 ライブが終わったあと、音楽家の大先輩にあたる高岡良樹先生がこうおっしゃった。

 「ふつう、どう考えてもこういうオヤジをみて思うことはないんだけど、今日の君は美しかった。うん、良かったよ。今日の君は」

 高岡先生は「歌物語」というジャンルのパイオニアであり、ギョウギさんが、自分のレコード「クローズ ユア アイズ」を、「聴いてください!」と持ち込んだお1人でもある。

 この夜の高岡先生の目はキラキラしていた。

 さて、現在、タコシはチクリカンの2階にあった老舗のクラブ後を改装しダンキンカンというライブハウスの店長になっている。

 ギョウギさんは、ここ数年、糖尿病で入退院を繰り返しながらも、ライブを続けている。創作欲衰えず、まだ日の目を見ない新曲もあるとか。

 ぼくは、こんな音楽人生の男たちの半生が映画になったら面白いだろうなあと妄想を膨らます。クレージーな生き方をしてる人々を演じてもらうのは、誰がいいかな。

虹 作詞・作曲 行木柾雄

小さな心 作詞・作曲 行木柾雄