「夢」と「チューインガム」

M. Kimiwada

M. Kimiwada

君和田 正夫

 8月の猛暑は日本人に戦争の記憶を蘇らせます。原爆は6日に広島へ、9日には長崎へ投下され、15日は終戦記念日。12月と並んで戦争を胸に刻み込む月、と言っていいでしょう。

 真珠湾攻撃の半年前に生まれた私は、戦争体験を語る資格はありません。わずかに覚えているのは、米軍(連合軍)の爆撃機が編隊を組んで横浜の上空を飛んで行ったこと、夜になると厚木基地からのサーチライト(探照灯と呼ばれていた)が、米軍機を求めて空を交錯していたこと、またそれが妙にきれいだったこと、などです。

 少し物心がつき始めたためでしょう、終戦直後の記憶は相当生々しく残っています。厚木飛行場に降りた連合軍が家の前を通って横浜市内に入っていったこと、それを雨戸の隙間から覗いていたこと。私が初めて会った外国人はおそらくアメリカ人で、しかも黒人兵でした。(家の近くに韓国人が住んでいたので、彼らが最初の外国人かもしれませんが、当時は外国人と知らなかった)米兵から貰ったチョコレート、ガム、ドロップは宝物でした。ベトナム戦争の時、最前線で戦うのは黒人兵が多い、という記事を読んで、なんとなく納得したことがあります。ベトナム以前からそうだったのだろうと。

 

「マッカーサー劇場」「ゲーリック球場」

 

 横浜の野毛に「マツクアーサー(マッカーサー)劇場」がありました。私が初めて見たカラー映画は、ディズニーの『砂漠は生きている』ですが、日本公開は1950年代ですので、この劇場か、あるいは日本名に変わった後の劇場で見たのでしょう。その横浜市内を走りまわっていたジープは格好良く、新鮮な風景でした。

 現在の「横浜スタジアム」は大リーグの名選手の名前から「ゲーリック球場」と呼ばれていました。正式には「ルー・ゲーリック・メモリアル・スタジアム」。ゲーリックが横浜に来て日米親善試合をした記念のようです。日本で最初のナイター試合が行われました。その後、連合軍から返還されて「横浜公園平和球場」になり、現在のスタジアムになりました。

 このように記憶をたどると、私の身の回りは米国一色だったように思えます。でも私だけではなかったのでしょう。1950年に発売された美空ひばりの『東京キッド』(作詞藤浦洸、作曲万城目正)の大ヒットがそのことを示しています。その歌詞は長い間、私にとって謎でした。

 「右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チューイン・ガム」

 夢とチューイン・ガムの対比は変じゃありませんか。右が夢なら左は恋とか青春とかではないのか、と思ったりしたのです。しかし、ある時、思い当りました。チョコレートやガムが宝物だった、という記憶がよみがえったからです。「夢」と「ガム」は戦争で長い間続いた物心両面の渇望が一挙に解消されたことの象徴でした。新しい時代の始まりを告げたのです。米軍がもたらした幸せ、とでも言うのでしょう。

 米国は1946年から51年まで日本に対し「ガリオア・エロア」という占領地域に対する経済支援、復興支援として18億ドル規模の支援をしました。おかげで日本の復興は急ピッチで進んだのですから、米国一色になったのもやむを得ないことだったのですね。

 

それぞれの戦争体験

 

 それぞれの人に、それぞれの戦争体験、それぞれの戦後体験があります。第二次大戦以降も戦争は続いています。ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争…。

 こうした戦争から日本は長い間、一歩退いた形で、国際社会と付き合ってきました。憲法の存在が決定的に大きかったため、といえます。同時に日本は「安保ただ乗り論」と言われるくらい、軍事面は米国にまかせて、経済に特化しました。その結果、世界に冠たる経済大国に成長しました。しかし、その経済の具合がおかしくなって、国際的な存在感が薄れてしまったところに、軍事面での貢献が浮上してきているのです。

 私はいまこそ経済中心の原点に戻り、経済による国際貢献を目指すべき時だと考えます。経済の再建はアベノミクスの眼目でもありますので、ぜひ「第3の矢」を実りあるものにしてほしいと願っています。日本得意の物作りはもちろんですが、先端的技術、電気、鉄道・上下水道などのインフラ、医療、農業など様々な分野で国際的な活動を展開できるはずです。日本の存在感は軍事面に依るより、はるかに効果的に浸透すると思います。

 

ODAを「積極的平和主義」の柱に

 

 経済復興と深い関係にあるのがODA(政府開発援助)です。「積極的平和主義」をうたう以上、その柱にODAの拡充を据えることが日本にふさわしいと思います。日本のODAは1989年に米国を抜いて1位になりましたが、2001年にふたたび米国が1位に復活しました。日本のODAは以降、減少傾向にあります。一番多かったのは1995年の144億8900万ドルでしたが、2007年には半減状態の76億9700万ドルまで減りました。2011年に100億ドル台に戻しましたが、ピークから25%も減りました。〈外務省のODA白書。出典は経済協力開発機構(OECD)の中の開発援助委員会(DAC)のデータで、実績ベース〉

 よく引き合いに出される国民一人当たりの負担額も、DAC加盟国の中で1位はノルウェーの1002.8ドルに対し、日本は85ドル、国民給与所得に対する比率は1位がやはりノルウェーで1.02%、日本は0.18%です。日本が増やす余地は十分ありそうです。

 海外で評価されてきた日本の高い技術力、良質な商品、日本人の勤勉さ、真面目さ、礼儀正しさと言ったことは、日本企業の頑張りやODAによって長い時間をかけて培われてきたものです。戦後の日本が助かったのと同様、いま多くの途上国が良質で安心できる援助を待ち望んでいるのです。

 私たちはもう一度、「世界における日本の在り様」を見つめ直そうでありませんか。