危険地帯の取材と「自己責任」

大勢のメディア関係者が詰めかける中、淡々と質問に答える安田純平さん(2018年11月2日)

安田菜津紀

 「ご本人の体調に配慮して、着席後、カメラのフラッシュはご遠慮下さい」。記者会見場でのそんなアナウンスを耳にしながら、3年4カ月の拘束はどれほど心身を追い詰めるものなのかを改めて想像した。どんなに想像してもきっと及ばないほど、その日々は長く、壮絶なものだったはずだ。会場に現れた安田純平さん(44)は、見た目にはしっかりとした足取りで、背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。そこから2時間以上に渡り、シリアでの日々を語り、記者たちの質問に答えた。


 こうした事件が起きる度に沸き起こるのが、いわゆる“自己責任論”だ。確かに安田さん自身が語った通り、その言葉の本来の意味自体は受け止めたい。ジャーナリストは自身の責任において情報収集し、行くべきかそうでないのかという判断を下している。ただ、今の日本の中での“自己責任論”は、ほぼ“自業自得”と同義で使われていないだろうか。そしてその“論”は一時的に沸騰し、飽きればまたあっという間に別の話題に移っていってしまう。結局具体的な提案はなされないままだ。


 なぜ事件が起きてしまったのかという現場レベルの話は、安田さん自身も分析をしていた。なぜここまで時間がかかってしまったのかという交渉レベルの検証、さらにはフリーランスが置かれている状況そのものに私たちは切り込んでいく必要があるのではないだろうか。ただ「いいものが撮れたら買うよ」という大手メディアとフリーランスの関係から一歩踏み込み、危険地取材の知識やノウハウを垣根を超えて共有できるような場を築けないだろうか。少なくとも準備不足や予備知識の欠如などによる事件を減らそうという試みは、海外では行われている。
 例えば2015年2月、相次ぐジャーナリストの殺害や拉致を受け、AFP、AP、ロイターやBBCといった国際報道機関などが共同で、フリーランス・ジャーナリストの安全確保のためのガイドライン「A Call for Global Safety Principles and Practices(世界的な安全の原則と実践の呼びかけ)」を公表している。ガイドラインはジャーナリストに対して、応急手当の訓練を受けること、安全装備の確保や渡航前のリスク評価を求めているほか、報道機関に対しては必要な訓練や装備をフリージャーナリストに提供するよう呼びかけている。
 他にも英国ロンドンに拠点を置く「ローリー・ペック財団」は、フリーランスのジャーナリストやその家族の支援を活動の柱に置き、危険地に赴くジャーナリストたちへの研修や資料の提供などを行ってきた。BBCやCNN、AP、ロイターなど国際報道機関が出資している他、個人からの募金も活動資金の多くを占めるという。


 こうしたジャーナリストへの支援体制の違いは、ジャーナリズムそのものに対する意識の差の表れでもあるかもしれない。イラクなどで取材していると、世界中から集まるジャーナリストたちと話す機会がある。欧米から来た取材者たちにこの“自己責任論”を伝えようにも「そもそもその概念が分からない」と言われることすらある。「なぜジャーナリストが現場に行くのか、つまりなぜその現場のことを知る必要があるのかが伝わっていれば、バッシングは起きようもない」と米国で活動するジャーナリストが語ってくれたことがある。


 なぜ行くのか、なぜ知る必要があるのか。それを突き詰めていくと必ず、「海外メディアやインターネットから情報がふんだんに入ってくる今、なぜわざわざ日本から行く必要があるのか?」という声があがる。確かにシリアなどの情勢を知る上で、海外メディアの取材から貴重な情報に触れることが多々ある。ただ、そこからお借りする映像だけで全てが済むのであれば、取材活動の意味自体が失われかねないはずだ。日本と現地でどんな情報や感覚の開きがあるのか、その肌感覚ごと持ち帰ることで初めて、遠い地との距離は縮まるのではないだろうか。


 私自身も大学生のとき、綿井健陽さんが取材、監督した『リトルバーズ イラク戦火の家族たち』という映画を観たことが、中東情勢に興味を持つきっかけの一つだった。爆撃でお子さんを亡くした父親とその家族を取材する中で、墓標に書かれた言葉が目に留まる。「お父さん泣かないで、私たちは天国の鳥になりました」。父親を慰めるために、友人たちが書いた言葉だった。その家族が置かれた状況自体も衝撃だったが、日本からこの場に出向き、リポートを続けている綿井さんの存在があったからこそ、ここで起きていることが私の中で「他人事」ではなくなっていったのだと思う。


 こうした拘束事件や、その後のバッシングばかりが際立つと、ジャーナリストとは危ない、厳しい仕事、というイメージばかりが強まってしまうかもしれない。安田さん解放のニュースの後、特に学生さんたちから「どうしてこんな辛い仕事を選んだんですか?」という質問を度々受けた。もちろん戦場や危険地に行く人もいれば、長期的に一人の人生を落ち着いて追いかける人まで、一口に「ジャーナリスト」と言っても幅広い。「単なる仕事の一つ」「野次馬」と割り切るニヒルなスタンスの人々がいることも、決して否定するつもりはない。


 ただ私自身の経験を分かち合うとすれば、この仕事を選んでからの日々は、必ずしも辛いだけのものではなかった。とりわけ写真は、その場に行かなければ絶対に撮れないもの
だ。つまり、人に会いに行くこと、現場にいくこと自体が仕事なのだ。厳しい現状を目の当たりにしたり、傷ついた人々との悲しい別れを経験したりしたのも一度や二度ではない。けれども素晴らしいご縁をいただいたり子供たちの成長を感じたりと、悲しみを上回る喜びがそこにはあった。


 加えて安田さんが解放され、「これでひと段落」と、シリアの現状そのものへの関心がまた急速に弱まってしまっていることも気がかりだ。2011年3月から国内に広がっていった民主化運動は、武力による弾圧を受け、8年近くもの熾烈な内戦となってしまった。今でもシリア国内外で避難生活を送る人々は1200万人にものぼるとされている。内戦前の人口が約2200万人だったことを考えると、その半数以上が家を追われたことになる。


シリア北部、テルタマール。何重もの戦闘に見舞われ、廃墟が並ぶ村の姿も目立つ。(2018年5月)

 私自身はシリア各地で政権に対するデモが起きる前、2010年頃までこの国に通い続けていた。当時のシリアは治安が安定し、むしろ隣国の戦闘から避難する人々を受け入れる側の国だった。渡航のきっかけとなったのは、日本で知り合ったイラク人の友人だった。アリ、という一歳年下のその青年は、学生同士の交流キャンプに参加するために東京に滞在していた。帰国後、自身の暮らす街の治安が悪化し、彼は2007年に隣国シリアの首都ダマスカスへと逃れた。そのアリに会いに行ったのが、シリアとの出会いだった。ダマスカスには歴史深い市場やモスクなどが並び、広がる風景の美しさに魅了された。そしてそれ以上に、家族、友人たちを何よりの宝とする人々の温かさに心ひかれた。


シリア北部、カミシリ。学校の朝礼前に集ってきた子どもたち。(2018年5月)

 そんな穏やかに見える日常とは裏腹に、政治的な抑圧に人々の不満がくすぶっていることも度々感じていた。少しでも政治に対して触れようものなら、「し!」と現地の友人たちは血相を変えて止めに入った。彼らは常に密告を恐れていたのだ。それでも当時はまだ、シリアがここまで熾烈な状況に追いやられることを、想像することさえできなかった。


シリア北部、アムダ。元気に駆け寄ってきてくれた散歩中の親子。(2018年5月)

 今年春、私も8年ぶりにシリア北部を訪れた。変わらず温かく迎えてくれる人々も、ふとした瞬間に亡くなった家族や友人たちのことをぽつりぽつりと語り始める。もはやこの国で、身内を殺されたことがない人などいないほど、犠牲者は増え続けている。例え目に見えた戦闘が収まった地域であっても、不発弾や地雷、仕掛け爆弾の被害は後を絶たない。加えて故郷シリアに戻れば即徴兵されるのではと、帰還を躊躇する男性たちの声も耳にする。男性たちが帰れなければ、その家族たちの帰国も難しくなる。


同じ集落の中、民家の庭に残された不発弾。これが帰還を阻む要因の一つとなっている。(2018年5月)

 けれどもそこには確かに、ささやかな日常を取り戻そうと、もがきながらも前に進んでいる人々の姿があった。瓦礫と化してしまった村に、まばらではあるものの人々が戻り、畑を耕し、小さな市場を開いていた。学校には再び子どもたちの声が響き、お年寄りたちがお茶を飲みながら夕暮れの談笑を楽しんでした。日本から見て「危ない」とくくられる地は、無人の更地ではない。だからこそそこに生きる一人一人の息吹を、これからも日本まで届けたい。「この地のことを、もっと知りたい」という輪を、少しずつ、けれども着実に広げるために。


アムダ郊外の村の麦畑で、一緒に追いかけっこをした子どもたち。(2018年5月)