【悲報】パクりの機械化とキース・リチャーズ

Kazu Shimura

Kazu Shimura

志村一隆

 自分は水墨画を嗜んでいて、作品をインターネットで公開している。先日その作品のひとつが、知らぬ間に人気ゲームのアイテムに使われてしまった。画像をトレースしてパクるのでトレパク、パクられた人をラレ元(パクられ元)と言うらしい。

面白い経験だったので、そのとき考えたことを記録しとこう。

 

ひたすらマネる伝統芸

 

 ラレ元の自分が言うのもなんだが、水墨画の修行は先人の作品をパクることから始める。水墨画に限らず、伝統芸の多くは師匠のマネをしてその技をカラダに染み込ませるのが練習方法である。今回パクられた作品は富士山を描いたものであるが、その技法や構図は何万もの作品や風景を見た過去の記憶から生まれたものである。

トレパク絵馬

 なにかのパクりではないが、ゼロから作られたものでもない。アートはパクりをそもそも内在しているんだろう。

 では、そんな作品を企業がパクると、なぜ騒ぎになるのだろうか。トレパクという安易な方法に怒ってるのか?それで金儲けをしてるからなのか?

 

彼らはなにに怒ってるのか?

 

 面白いのは、パクりを見つけてくれたのも、ゲーム会社に怒ってるのも、ラレ元の自分ではなく、アンチやファンの人たちである。

 いったいパクられてもいない彼らはなにに怒ってるのか?

 騒動で盛り上がっているファンコミュニティに「こんなパクりゲームをしてる自分が恥ずかしい」「ラレ元さんに申し訳ない」という書き込みがあった。ゲーム会社の代わりに自分に謝ってくれている。嬉しいが、なぜ彼らは怒ったり、恥ずかしさを表明してるのか、いまいちわからなかった。

 たしかに、コピペしてゲームを作れば、コストが下がり儲けが少し増えるかもしれない。しかし、ゲーム運営にはお金がかかることくらい、プレイヤーの人たちもわかってるハズだ。

 だから、そんなお金の問題というより、制作過程に安易な手法であるトレパクを使ってることが怒りの原因ではないかと考えた。「だって、プロでしょ」という感覚か。

 

ストーンズ、マディ、ファンのリスペクト空間

 

Mutual_Respect

 トレパクがなぜイケないのか?そんなことを考えているときに、Netflixでローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズのドキュメンタリー“アンダー・ザ・インフルエンス(Under the Influence)”を見た。

 そのなかに、キースと初めて会ったマディ・ウォーターズが「俺の音楽をうまく使っているね(Thank you for what you guys are doing)」と言ったというシーンがある。

 ローリング・ストーンズはアメリカのルーツミュージックをまねて大金を稼いだ。キースはそのことを本人の前でも言い、まねされた側も受け入れている。ファンもパクりだと騒ぎ立てることもない。英語で”Mutual Respect”という言葉があるが、まさにお互いに敬意を表している。

 自分もパクったデザイナーとそんな会話を交わしてみたい。

 

パクりの機械化

 

メディア_トレパク2

 では自分とデザイナー、そしてファンの三角空間には、なぜミューチュアル・リスペクトで結ばれなかったのだろうか。それは、おそらくまねたという行為自体ではなく、その過程にあるのではないか。

 伝統芸のように師匠に「あーだ。こーだ」言われながらまねるのと、画像検索しトレパクするのではその苦労度がだいぶ違う。キース・リチャーズだって死ぬほど練習してるだろう。日本舞踊のお稽古も師匠の舞をひたすらまねる(自分は日舞の名取でもある)。スマホで撮影するなんてのを言い出す雰囲気でもない。メモもダメ。全部記憶する。

 つまり、創作活動に含まれるマネる行為は結構な手間と時間がかかるのだ。

 その手間ヒマをトレパクは完全にハショっている。なぜハショるのか?呑気なこと言ってんじゃねーよ。納期も予算も限られているんだという現場の声が聞こえてくる。ビジネス的に合理的だろうが、創作活動本来の姿からは相反している。

 そして、創作活動に本来相反するビジネスを持ち込み過ぎると、金銭欲や名誉欲が目立ちすぎる。

 その反発。それが騒動の正体ではないか。

 

五輪エンブレム騒動

 

 そーいえば、五輪エンブレム騒動に対して、ある人が「佐野氏は創作活動には先人の営みの助けが必要なことを完全否定してしまった」と言った。そして、「彼から感じたのは名誉と欲でした」とも。

 改めて、佐野研二郎氏のホームページを見てみた。そこには「模倣や盗作は断じてないことを、誓って申し上げます」と書かれている。彼だって、創作活動が先人の模倣の上で成り立っていることくらい知っているだろう。それでも、そのことを表明できないのはなぜなのか?それを表明することで、名誉や富を失うと考えたのだろうか。それは誰に対しての名誉や富なのか。

 キース・リチャーズが言っていた「俺たちは曲をファンに捧げてきた。俺たちはファンの一部なんだ。彼らをがっかりさせてはいけない(”We set them up and gave ‘em to people, and now we belong to the people. We can’t let them down”)」

Keith

 ホームページの冒頭は「東京オリンピック・パラリンピックを成功を願う純粋な思い」とある。佐野氏が背負おうとしたのは、「国家」の思いなのか「国民」の思いなのか、どっちでもないのか。どうなんだろう。

 

新たな複製技術時代のアート

 

 かつて、写真機の登場に「アートはアウラを失なう」と言った先人がいた。簡単に複製できる機械に対して、一点ものが持っていた価値が失われると言ったのだ。本物そっくりに描く風景画家や肖像画家の仕事は写真機に奪われたが、複製を大量生成することは工業化社会の経済合理性にかなっている。そこで、コンテンツビジネスが生まれ、いっぽうそんな環境で一点性のアウラ(オーラ)をいかに保持するかが、長い間クリエイターの課題であった。その答えのひとつがウォーホルなどのポップアートであり、広告のクリエイティブであろう。

 さらにデジタル化とインターネットの出現は、他人の作品をも複製可能にしてしまった。無数のアーティストが無数の作品を生み出せば、一つ一つの価値(経済的な)は低下する。つまり、複製による大量生産で利潤を最大化する工業化社会時代から多品種少量生産への社会的変化は、アートやコンテンツビジネスにも及んでいるのである。

 五輪エンブレム騒動は、こうした新たな変化のなかにいる人たちと既得権益のなかにいる人たちの軋轢から起きたのであろう。それに前述した「こんなパクりゲームをしてる自分が恥ずかしい」という書き込み。アンチがゲーム会社を非難するために書き込んだのが現実だろうが、いままで述べてきたことを念頭におけば、アートからアウラが消えていくことへの本能的な悲しみも感じ取れないこともない。いずれにせよ、クリエイターは新たな複製技術を前提とした仕組みを再構築する必要がある。そのことを痛感させられたのが、一連のパクリ騒動の教訓である。

*アウラや一点性については以前「あやぶろ」で議論した。前川英樹氏のこの記事を参考にしてほしい。

*パクり問題については、次月号の寄稿「事実はネットより奇なり」でも引き続き考えている。