杉野 華子
2013年2月11日、日本を離れ地球の裏側、ペルーでの生活が始まりました。首都、リマにある天野博物館(注)での1年間の日本語ガイドのボランティアをさせて頂くことが目的です。このボランティアはペルーに住む小学校時代の同級生がFacebookに乗せた「ボランティア募集」がきっかけでした。もともと南米に強く引かれていたにも関わらず、25歳になるまで行く機会に恵まれていなかったため、「このチャンスを逃してしまったらもう行けないかもしれない‼」という思いでペルーに行くことを決意しました。
<注>天野博物館 日本の実業家、天野芳太郎(1898~1982)が私財を投じて1964年にペルーの首都リマに設立した。アンデス文化に関する考古学博物館。展示、所蔵件数は染織、土器、栽培植物の化石など数万点に上る。
天野は秋田生まれ。横浜で饅頭の事業を興し、その資金を基に1928年(昭和3年)中南米に行き、パナマを拠点にチリで農場、コスタリカで漁業会社、エクアドルで製薬会社など各地で事業を展開した。この頃から古代アンデス文明の遺跡を歩いている。第二次世界大戦で収容所に入れられ、後に日本に強制送還されたが、終戦後の1951年にペルーに移り住んだ。(財団法人天野博物館のホームページによる)
何故南米だったのか。それは13歳にまで遡ります。その年の夏休み、私は幼馴染で小学校の同級生に会いに、南米のパラグアイに行きました。彼女は母親がJICA(国際協力機構)に勤めていて、3年ほどパラグアイに転勤していたのです。そして、単身で東京に残っていた彼女の父親が夏休みの時期に家族に会いに行くので、華子も一緒においでと誘ってくれた、というわけです。
13歳が感じた「オープンな人々」
パラグアイの大地を踏んで、すぐに何故か「ここが私の居場所だ」と思いました。なぜそう思ったのかその時は全く分からず、“不思議な居心地のいい場所だ”と思っていました。2日3日と日が経ち、現地の人との交流が始まると(当時はスペイン語のスの時も知りませんので、知っていたありったけの英語とジェスチャーが武器です)この国に着いた時に不思議に感じていたことが確信へと変わりました。「私は南米人だった」のです。
パラグアイの人々と接しているうちに、彼らが自分にとても似ていることに気が付きました。みんな自分の感情にとても素直で、とてもオープンだったからです。当時の私は自分が好きではありませんでした。小学校の頃から周りの友達からは「華子は私たちとは違う。感情表現がオーバーだし、いつもグループを気にしないで自分のやりたいことを優先させている」と言われ、悩んでいました。しかし、一方で自分のやりたいことをやって周りと同じことをしないことの何が悪いのか、嬉しいときに力いっぱい喜んで何が悪いのか、悲しい時に心から泣いて何が悪いのか、が全く分からず、困惑していました。13歳の華子は自分が自分らしくいられる場所も世界にはあるのだと知って安心し、その安心感が「私の居場所だ」という思いになったのだと思います。それからは南米の虜です。
大学を選ぶとき、「自分は何が一番一生懸命勉強できるのだろう?」と考えた結果、また南米に帰りたいという思いを実現させるためにスペイン語を勉強しようと決めました。
親切心で誤った道を教えてくれるペルー人
さて、新しい環境での不安いっぱいの新生活!!と、思いきや、出会う人からも、「もーずいぶん長く住んでいる人みたいに見える」といわれる始末でした。やはり中学生の時に感じていたことは間違っていなかったようです。リマでの新しい生活があまりにも居心地よく感じていたため、半年経った頃にもう全てが当たり前で時間を持て余すのではないかと不安を感じ、常に物事に興味をもって、学び多い一年にしようと心に強く決めたのを覚えています。
ペルー生活最初の1か月は毎日が新しい発見で心躍らされる毎日でした。列挙してみると、
・水平線に沈んでいく大きな太陽、
・スペインとは違うスペイン語感、
・公園内で開かれる手作り品の出店達、
・道端で売っている南国フルーツ、
・何でも、まずは自分で作ったり直したりする人々、
・同じ会社同士のバスがスピード競争を始めて停車駅でも止まってくれない暴走バス、
・道を聞かれた時、親切心のあまり、分らないと言えずに真逆を教えてくれるペルー人、
等々、自分が目を開けて見ようとアンテナを高く上げていれば色々な発見があり、日々学びや驚きを得ることができました。
また、この頃は日本では決してなかった出来事もありました。
まずはゴキブリ。日本では一度も出会うことがなかった5㎝程の巨大な彼ら。その彼がシャワーを浴びている時に水除カーテンにしがみつき、トコトコ歩いているのを見たときは固まる他に何もできませんでした。
ゴキブリの次は、突然の断水。予告もなく夜ご飯の支度をしようと思うと水が出ない。知っていれば準備もできるが、あちらではお知らせはありません。幸い一晩で終わりました。ホッとしてまた普通の生活にもどると、今度はシャワーの最中、シャンプーで髪を洗っている時にガスが切れてしまう始末。冬の水シャワーはあまりにも寒いので、電気ポットでお湯を沸かして泡を流してシャワー終了。
また、一緒にボランティアで働いていた子の部屋を工事しなければいけないからと、当日朝言われ、その日のうちに簡易の部屋を作ってしまい、すぐそちらに移動なんていうこともありました。
日本にいたら絶対にない驚きの連続に、この頃にはちょっとやそっとのことでは動じなくなっていました。今思うと、今後の冒険のために強くなっておきなさいという誰かからのメッセージだったように思います。
日本と類似点が多い国
ペルー生活が2か月に入る少し前、この旅の第一目的である博物館でのガイドがスタートしました。人に何かを分かりやすく説明するのは難しいけど、「分かりやすかったー‼」「来なきゃ分らなかったから来てよかった‼」などのお言葉を貰えるガイドはとても好きでした。ガイドをするために学びを始めると、もっともっと知りたいという欲求にかられました。色々な本を読んだり、インターネットで調べたり、色々な人の話を聞いたり意見を聞いたり。そうしているうちに、ペルーの文化を学んでいるのに、いつの間にか日本のことを学んでいることに気づきました。
日本文化とペルー文化を比較すると、類似点がとても多いのです。(ここで使う“ペルー文化”とはスペイン人によって占領される前の時代を指しています)例えば、この世界は陰と陽の力によって成り立っているとか、八百万の神がいると信じ、自然を母として崇めていたり、自分たちを神の子孫だと考えていたり(日本では古事記があり天皇は神の子であるとしています。インカ帝国でもまた王様たちは太陽の神の子孫であると言い伝えられています)、形として残っているものでは、キープという結縄文字(下の写真)。これは文字を持たなかったアンデスの人々が用いた伝達手段で、紐に結び目を付けて、暗号で伝達するものです。実は似たものが日本の竹富島でも『藁算』(わらさん)という名前で残っています。琉球王朝時代の数の記録法です。
全部あげてしまうときりがないのでやめますが、本当に同じ文化圏の人同士がいたのではないかと思ってしまうくらいです。ペルーを学べば学ぶほど、日本を知ることができ、自分の日本への知識のなさを感じました。知れば知るほど日本人として、自分の原点を知りたいと思うと同時に、今までただの習慣で行っていた年中行事に深い意味があることを知り、昔の人々の願いや祈りに敬意を覚え、日本人に生まれたことへの誇りをも持つことができるようになりました。「日本とペルー」ということで言えば、この博物館自体、日本人の天野芳太郎が私財を投じて1964年に作ったものです。財団法人天野博物館のホームページには「この博物館の一番の特色は、天野芳太郎のアンデス文化に対する畏敬の心にあります」と書かれています。
珍しい模様、複雑な織り方、細かい手仕事
天野博物館にはプレインカと呼ばれるインカ帝国時代前の土器や織物が展示してあります。その中でも特に目を引くのが織物。天野博物館ではプレインカの中でもチャンカイ文化と呼ばれるリマから北方に60㎞にあるチャンカイ川流域で栄えた文化の織物を大変多く展示してあります。乾燥地域のため、織物は腐ることなく、ほぼ完全な形で保存されています。私もお客様と一緒に織物を見るたびに昔の人々の手仕事の細かさに尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。まるでもっと珍しい模様を‼もっと珍しく複雑な織り方を‼と日々新しいものを生み出すことへ生きがいを感じ、織職人同士での張り合いがあったのではとも想像ができるほどの種類の豊富さです。
また、一つ一つの模様へ込められた意味を調べると、彼らが織物に込める愛と祈りの強さに感銘を受けました。例えば鳥模様。多くの織物に描かれていますが、これは鳥が天高く飛べることから、生きている時は天の神様と繋がるための目印として、また死後はその魂を天の神様のいるところまで届けてくれるようここにいるよ‼という目印として多くの織物に描かれています。フクロウの目や空の模様。フクロウは夜目が良いことから、また空は私たちをいつも見守っていることから、織物を着ている人を邪悪なエネルギーから守って欲しい、という祈りが込められています。
織物を柄で覆うのはその人の富を願って華やかなものをまとう習慣があったとも考えられます。このように織物を使う人への愛、神への感謝、豊かさへの祈り、様々な思いが織物一つ一つに込められているのを感じることができます。またここでも日本との共通点。日本にも古布と呼ばれる布があります。例えば、みちのく。この地域では多くの多くの刺繍がしてある着物を見ることができると思いますが、この刺繍も少しでも寒さをしのげるようより多くの隙間を埋めるために施されたものだとか。やはりここにも使う人への強い愛を感じます。
物質社会が失わせた「感謝」「思いやり」
今、私たちは物にあふれた世界に住んでいます。飽きたら新しいものを買い、まだ使えるのに捨ててしまう。壊れたらまだ直して使えるのに、新品の物を購入してしまう。このような物質社会にいるために、物への感謝の気持ちや大切に使おうという思いやりが薄れ、その流れで人への感謝の気持ちや思いやりの気持ちまでなくしつつあるのではないか、と思います。その思いは今の便利な世の中への疑問でもあります。便利な世の中とは「何でも買える世の中」を意味します。自分で物に価値づけをするのではなく、その物の値段で価値を判断するようになり、どのように作られているのかも知らずにポイポイ捨てることに違和感を持たなくなっていく。
これで本当に良いのかと疑問に思いました。ペルーに来て、昔の物に触れ、何でもまずは自分で作ったり直したりして物を大切に使う人々を見ているうちにそんなことを感じるようになりました。ペルー生活を始めて3か月で、こんなにも沢山の気付きを得られたことに感謝しています。
その後も、ボランティアを通して、様々な方との出会いがあり、その度に新しい物の見方や考え方、または知らなかった知識を与えてもらいました。自分にとって一番新しい物の見方は二つありました。
一つは「Todo pasa por algo(全ての出来事に意味がある)」
もう一つは「全てが自分の捉え方で世界の見方が変わる」
多くの人が「全部意味があって起こっているからこの世界に無駄なものは何一つない。だからいつも何故なのだろうと考えることは学びを得るきっかけになる」と教えてくれました。異国にいる私には「なぜ?」と考える機会に恵まれていました。この考えをいつも念頭に置くようにしてから、一つ一つの出来事を客観的にとらえられるようになりました。以前よりも気持ちが楽になったように思います。
また「全て自分の捉え方で世界の見方が変わる」この考え方もまた私の生活を楽にしてくれました。理解に苦しむような出来事でも、その出来事がポジティブな物になるかネガティブな物になるかは自分の捉え方次第で変えられることを学びました。ペルー生活を始めて半年後にはまるで、自分が別人になったかと思うほど、自分の興味、物の見方、考え方が変わっていることに気が付きました。博物館という、様々な方々が集まる場所で働かせて頂いたからこその経験だと思います。
天野博物館での日本語ガイドボランティアを通して一番の収穫は、自分に自信をもって自分を好きになることの大切さ、相手への思いやりと感謝の気持ちの大切さ、学び続けることの大切さ、人生は全て自分次第でよくも悪くもすることができるということを学べたことでした。この経験を大切に、いつまでも忘れずに自分らしく生きていきたと思っています。