「おもてなし」の裏側に見える日本人考

A.Uritani

瓜谷 茜

 私にはスペイン人の母と日本人の父の血が流れています。先日、祖母や親戚の住むスペインに滞在中、おしゃべりな地元スペイン人女性(60代)からこんな話を聞きました。

 「この間夫婦で初めて日本を旅行して来たの。日本ではどこに行ってもサービスが素晴らしく快適だったけれど、会話をする時に人々が目を見てくれないことが不思議だったわ。」

 そんな彼女がさらに驚いたのは、「キャバクラ」の存在だったそうです。

 「女の人が隣に座ってお酒を注いだりお喋りしてくれる店なのよね。私みたいになんでも喋ってしまう人からしたら、お喋りするのにお金を払うのが不思議で仕方ないわ」

 何がタノシイの?と言わんばかり。まあ、ご主人は隣で静かに微笑されていましたが…

 

吉原とキャバクラの「共通点」

 

 私はモデルの仕事の傍ら、イラストレーターとしても活動しています。主に歌舞伎など日本の伝統芸能を題材に絵を描いたり、伝統芸能を身近に感じてもらうためのイベントなどにも関わっています。

 この女性との会話のしばらく後に、江戸の吉原について学ぶイベントに参加したときのことです。吉原とキャバクラには共通点があることに気がつきました。それは、どちらも客との会話の時間をサービスとして売買していることです。

 吉原の花魁たちの重要な仕事は、客と肉体関係を持つこと以上に、茶屋で客をもてなし接待すること(あるいはされること)だったと知りました。そのためランクが上がるほどに、花魁にも豊かな知識や社交術が要求されたといいます。

 まるで銀座の高級クラブのママに近いイメージでしょうか…ヨーロッパにも、例えばオランダの飾り窓の地区など、長い歴史を持つ風俗街がありますが、肉体関係以前に「会話」の時間を長く割くといった習慣はありませんよね。

 

コミュニケーションしたい!したくない?

 

 私は日本で「おもてなし」が盛んに長所として言われる裏に、「日本人はコミュニケーションがそんなに得意ではない」という事実があるように思うのです。つまり、コミュニケーションが苦手であるからこそ、サービスとしてのコミュニケーションが発達してきた歴史があるのでは…という見方はうがち過ぎでしょうか。

 キャバクラなど、かりそめのコミュニケーションを楽しむシステムは「コミュニケーションへの飢え」を満たすサービスと言えます。逆に、「苦手なコミュニケーションを少しでも省く」ためのサービスというベクトルも存在します。たとえば、どんな小さなビジネスホテルでも、多くの場合アメニティが非常に充実しています。

 その理由のひとつは、フロントに電話をして「○○を持って来てください」というひと手間をあらかじめ省くためとも考えられます。そう考えると、サービスというのは人と人との直接のコミュニケーションの機会を減らす側面があるという捉え方もできます。

 

「いらっしゃいませ」と「一人焼肉」

サラマンカ文楽展にて着物で

 「いらっしゃいませ」という挨拶もそうです。日本ではお店に入って挨拶されても、客がそれに対して返事をすることはあまりありません。それは、「いらっしゃいませ」という言葉がマニュアル化された器にすぎず、わざわざ返答する必要はないからです。スペインではお店に入ると店員と客はお互いに「こんにちは」と言い合います。

 このようなマニュアル化されたサービスはコミュニケーションや行動を円滑にする良い側面もあります。反面、そこに心が加わらなければ、「サービスは素晴らしいのに目をみてくれない日本人」という外国人への印象を生むこともあります。

 また最近では、「一人焼き肉」や「一人ラーメン」など、仕切りを作りプライバシーの守られた空間で食事を提供するサービスも増えています。

 私も利用したことがありますし、状況によってはそういったサービスが非常に有り難い時もありますが、ラーメンを注文する時に紙にメニューを書いて店員の顔が見えない小さな仕切り穴から注文を書いた紙を渡す…そこまで徹底してコミュニケーションを排除するサービスが、お喋り好きなスペインで流行することは、ちょっと考えにくいことです。

 

おしゃべり好きなスペインでは「おもてなし」は広まらない?

 

 スペイン人は、男女問わずおしゃべりが大好きです。特に深い内容がなくても、自分に起きた出来事などをこと細かに喋り、相手も負けじと自分のことを話します。たとえば「インコの羽の色は何色だったか」といった、(どっちでもいいじゃん)と思ってしまいそうなテーマですら、大声で真剣に議論していたりします。

 「相手にとってこの話が面白いか」よりも、「喋ることで発散し、楽しく笑って時を過ごす」ことに重点がおかれている印象があります。

サラマンカの聖堂

 また、男女年齢を問わず、精神的な成熟度が近い人同士で話をしたがる傾向が強いように思います。このため、親子のように年齢の離れた二人がお茶をしながら友人として語り合う、という光景は珍しくありません。こういう文化では、日本のように「お金を払って若い女の子と喋る場を買う」というサービスはピンとこないのも無理はありません。

 日本のサービスは細やかで素晴らしいと心から思います。ただ時に、素晴らしいはずのサービスが、コミュニケーションの苦手な日本人からコミュニケーションの機会をますます奪ってしまう側面を秘めている、という意識を持つことも大切なように思います。そのサービスを「おもてなし」という美しい言葉でごまかしていないか…そう問いかけてみることも大切なのかもしれません。