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9時間実況した浅間山荘事件「ものすごく虚しかった」 5/7

  松尾 英里子 / 白鳥 美子

アナウンサーとして活躍していた久能さんにとって、大きな転機となったのが浅間山荘事件だ。 1972年(昭和47年) 2月19日、連合赤軍のメンバー5人が、長野県軽井沢町にある「浅間山荘」に乱入。管理人の妻を人質に立てこもった。2月28日に警察が強行突破し、犯人グループを全員逮捕。死者3人、重軽傷者27人を出した。)
 
19日夕刻、アナウンス部に出動要請が入った。土曜日で出勤している社員も少ない中、ちょうど社内に待機していた久能さんに指令が下った。急いで、会社のロッカーに常備していた着替えを紙袋に詰め、ジープで現地に向かった。まさかそこから10日間も山に籠るとは、その時は思いもしなかった。2月の軽井沢は、弁当も凍り、口が回らなくなるほどの極寒だった。頬を叩いたり、軍手で口元を覆って温めたりしながら、浅間山荘の様子を、連日、中継した。
 
28日午前10時、警察が突撃を開始した。その様子は、生放送で伝えられた。ガス弾、2台の放水車による激しい放水、大型クレーン車に吊り下げた大きな鉄球による、山荘の壁の破壊、相次ぐ被弾者、殉職者…当然、実況しながらも心穏やかではいられない。それでも、見えるもの、入ってきた情報を、ただひたすらに話した。喉が渇いた時には、積もっている雪を口にして、喉を湿らせた。
 
12時50分ごろ、すぐ近くにいた信越放送のカメラマンが、犯人グループの銃に打たれた。すぐに警察から退避するように言われた。しかし「僕は撃たれてもいいから。絶対に動きません」と断った。「自分がここを任されているんだ、自分が伝えなきゃ、という使命感があった」。
 
18時15分。人質となっていた女性が救出され、犯人グループも逮捕された。こうして、10日に渡る事件と、約9時間の生放送が終わった。
 
東京に戻ると、多くの人から労いの言葉がかけられた。ただ「最も記憶に残る事件ではあるんだけど、ものすごく虚しかった」。目に見えるものは話した。でも「犯人グループがどういう人物なのか、どこから来たのか、なんで浅間山荘に入ったのかとか、そういうことが全くわからないまま」だった。「視聴者に背景が全然伝わってない」。そう感じた久能さんは、アナウンサーではなく記者からやり直そうと、まもなく、報道局への異動願を提出した。


著書「連合赤軍浅間山荘事件の真実」(2002年河出文庫刊)

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