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80歳、酸欠日記①

塾長  君和田 正夫

 出井氏と最後の面会

 死が見えた時、意外に冷静だった。妻の顔と名前が頭のなかを走り廻った。臨終、危篤、遺言、別れ、詫び、いろいろな言葉が最後の面会をしておけ、後悔するぞ!と叫び、迫ってくる。だが待て、いまは夜中の2時か3時だ。間に合うはずがない。しかも3月15日、コロナで面会禁止じゃないか。やめておけ。
 3月8日から2カ月半、病院生活を送った。医師によると、この日のような臨終並みの危機状況は3度あった。そのうちの1回目だったという。
 病名は「間質性肺炎」。肺が酸素を取り込めなくなってしまう。診断が下るとすぐ「余命〇年」という宣告に結び付きかねない厄介な病気だった。私は薄ら薄らその恐ろしさを知っていた。
 この時も口に何か吸入器のようなものを突っ込まれた。「苦しい!」「苦しい!」と声にならない叫びの連呼。痰を吸い取ったのだそうだ。「酸素を上げよう!」そんな声も聞こえた。その時以来、その辺に漂っていると思っていた「酸素」が私の命綱になろうとは夢にも思わなかった。
 入院する1カ月ほど前の1月17日、ソニーの社長、会長を勤めた出井伸之氏にお会いした。作曲家三枝成彰氏の「80歳コンサート」の会場だった。ピアニスト辻井伸行氏が三枝氏の新作、ピアノ協奏曲を演奏し、混声合唱「最後の手紙~The Last Message」が上演された。
 私たち夫婦の隣が出井氏夫妻の席だった。出井氏には前からお聞きしたいと思っていたことがあった。1990年代の古い話だ。孫正義、ルパート・マードックという国際的に名を知られた2人が、テレビ朝日の株を買収する事件があった。普段静かな日本のメディア界は「黒船襲来」と大騒ぎになった。その時、テレ朝の株を買い戻そうとしたのが親会社の朝日新聞社だ。そして両コンビとの間に入って仲介の労を取ってくれたのが出井氏だった。私は新聞側の担当者だった。
 結果的に2人は株を手放した。なぜ手放したのか、いつ売却を決めたのか。出井氏はなぜ間に入ったのか。ソニー自身に思惑はなかったのか。ソニーは1989年の盛田昭夫時代に5000億円もの出資をしてハリウッド買収に動いた過去がある。
 「そんな遠い昔を覚えているかな」という表情だったが、出井氏がソニーをやめてから作ったクオンタムリープという会社の秘書と日程を決めることで了解を得た。しかし失敗だった。インタビュー直前に私は間質性肺炎になってしまった。出井氏も間もなく亡くなった。
 テレ朝株買収は1996年だった。朝日新聞の電子電波局長を命じられたばかりだった私は、出井氏からの一本の電話を待っていた。年が明けた翌1997年2月20日、待ちに待った電話があった。電話の向こうで「うまくいきそうだ。すぐ来てくれ」と嬉しそうな声が響いた。テレビの仕事に首を突っ込んだばかりの私にとって、いいスタートを切れそうだった。

 「ごめん」が母の命日

 ソニーに向かおうとすると、すぐ、もう1本の電話がかかってきた。病院からだった。
 「お母さんの容態がよくありません。すぐおいでください」。「おいでになるなら、その時まで何とか待ちます」。
 「延命装置を使うということですか。行っても話しはできないのですか」。
 「そういうことだと思います」。
 母は1週間ほど前の明け方、2階の階段を降りる際に転んで骨折し、入院していた。がんだったうえに日ごろから喉に痰が詰まる病気を抱えていた。
 私は延命を断った。「ごめん」。母の死に息子は間に合わなかった。
 朝日新聞の関連会社であるテレビ朝日は株式の21.4%、5分の1を、孫氏とマードック氏2人に買収されていた。買収額は当時としては巨額の417億5千万円。出井氏が「うまくいきそうだ」といったのは、この株の買い戻し交渉のことだ。
 買い戻すまでの間、テレ朝はピンチが続いた。1996年11月7日はその一つだ。二人の新株主から役員派遣の要求が出され、臨時株主総会を開くことになっていた。テレ朝はすでに開催を了承している。混乱が続く株式買収劇のピークだったかもしれない。
 九州勤務だった私には突然東京への転勤命令が出された。東京に着くなり「この総会案内はいかがなものか」と案内を見せられて驚いた。孫氏らが派遣を予定している役員2人のうち1人の名前がない。「日本人某」とあるだけだ。その「某」を決める総会が、すぐそこまで迫っている。「某」が誰だか確かめても、当日まで待ってくれ、という返事が来るだけ。「『某』とはなんだ、ふざけるな」と社内には怒りが渦巻いた。
 当時政界を中心に朝日はなぜ買い戻さないのか、と厳しい朝日批判が展開されていた。一刻の余裕もなかった。法律事務所や役所を動員して延期に持ち込んだ。
 朝日新聞の松下宗之社長がマードック氏と初めて会ったのは1996年12月18日だ。場所は料亭「吉兆」だった。出井氏が同席した。松下は率直に「株の買い戻しを購入価格でお願いしたい」と頭を下げた。マードック氏は丁寧に応じた。「私には何の野望もない。テレ朝にも、朝日新聞にも。喜んで社長のご希望に沿いたい。誤解を招く気はなかった」と。松下は逆に日本国内で活動するマードック・孫連合を支援することを提案した。この段階で株の買い戻しは決まったように見えた。
 ジャーナリスト、メディア経営者という同じ立場の仲間として和やかな歓談に終始し、マードック氏自身はすでに日本のマーケットを見切ったように見えた。株の売却には「孫氏の了解が必要」という条件を付けたが、「私が説得できると思う」とまで言い切った。確かに孫氏がジャーナリズム自体をどう考えているか不明だった。彼が目指す分野はジャーナリズムという世界ではなくインターネットなどの複合メディア事業だからだ。
 1997年3月2日、ホテルオークラで株式買戻しの最後の儀式を行った。相手側はマードック氏、孫氏に加えて野村証券からソフトバンクに移った北尾吉孝氏の3人。北尾氏は2005年のライブドアによるニッポン放送買収問題でフジテレビのホワイトナイトになった 。当方は松下と君和田。
 合意文書にサインをしようという段階になって孫氏が電卓をたたき始めた。マードック氏が「何をしている?」と聞いた。「この間の利子を上乗せしたい」と孫氏。「そんなことはどうでもいい。やめておけ」とマードック氏。孫氏が金融機関からお金を借りてテレ朝株を買ったことは明白だった。テレビのコンテンツはすでにマーケットで流通していた。ではマードック氏はどうした?為替差益があったのかもしれない。閉鎖的な日本マーケットに見切りをつけた、ということだったかもしれない。
 朝日新聞社長は直後の新聞経営セミナーで「立ち上がるコンテンツビジネス」をテーマに誇らしげに講演し、コンテンツはその後、激しく動くビジネスに成長した。松下は講演のあと肺炎を患い、短い闘病生活を終えた。65歳だった。

(2022.07.01)

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